見出し画像

東京万景 荒川区南千住 円通寺

浄閑寺から国道4号線に出ます。限りなく水が流れる川のように、風景に似つかわしくない車が激しく行き交っています。東北へと続くこの道は上野駅と同じ匂いがします。懐かしい思いを抱きながら北千住方向に歩きます。

しばらく行くと都電・三ノ輪駅への案内板が見えました。さらに進むと左奥にジョイフル三ノ輪という看板が見えます。看板は大きいのに商店街の軒は低く、こぢんまりとしています。古びたアーケード街のようです。

さらに国道4号線を歩いて円通寺を目指します。円通寺には彰義隊の墓や上野にあった寛永寺の黒門が移設されていて、それを見たかったのです。円通寺は曹洞宗のお寺で、延暦10年(791)に坂上田村麻呂によって開かれたと言われる古いお寺です。

途中にうなぎの串焼きや佃煮などの加工品を売る店舗がありました。帰宅してから調べると“丸善”という名店のようです。貧乏なくせに、うなぎが大好物で、死ぬ前には鰻が食べたい…という贅沢嗜好の僕は、立ち止まって中を覗きます。すると店の女性従業員らしき方々がニコニコと微笑んでいました。残念でした。

さらに歩くと、ようやく円通寺が見えました。広い入り口から中を見ると、大きな…というか巨大な金色の観音様が見えました。その左側には目的の黒門も見えました。

画像1

画像4

写真上:黒門正面、下:黒門の裏側

なぜ、千住のお寺に上野寛永寺の正門に当たる黒門があるのか…? 少し説明します。

上野寛永寺の輪王寺宮(後の北白川宮能久親王、仁孝天皇の猶子、明治天皇の義叔父にあたる。皇族)を、平将門のような新皇のようにおしたてて、寛永寺で新政府軍に対抗しようとした彰義隊と、大村益次郎率いる新政府軍との戦い(上野戦争)がありましたが、たった1日で彰義隊は、敗退してしまいます。

ちなみに僕の大好きな新撰組の原田左之助も、山崎(現・野田市)で盟友・長倉新八と別れて江戸に戻り、この上野戦争に参加して重傷を負います。その後、本所の収容先で死んでしまうのです。僕は、この原田を語り部として京都時代の新撰組で起きた事件を「幽霊」という下手な小説に書いたことがあります。

戦死した彰義隊の遺体(105名が戦死したといいます)は、現在の上野公園に長く放置され、腐乱してあたりには臭気が漂います。それだけではなく遺体には烏や野犬が群がり貪りつくという地獄を見るような状態でした。

見かねた千住・円通寺の住職・仏麿と侠客の三河屋幸三郎が、西郷隆盛に「遺体処理を行うための許可」を願い出て、西郷らの協議の結果、許可証が与えられました。仏麿は寛永寺の寺領の村人たちを集めて、遺体をモッコや大八車に載せて現在の西郷隆盛立像あたりに集めて火葬し、まとめた遺骨を壺に入れて千住まで運んで葬ったのです。吉村昭さんの遺作長編「彰義隊」にも、そのときの様子が詳しく書かれています。どうかご一読下さい。

その後、明治40年には、銃弾で穴だらけになった寛永寺の黒門も彰義隊の墓がある円通寺に移設されたのです。

それを聞いた江戸の人々の間で、赤穂浪士の墓所がある高輪・泉岳寺同様に、円通寺は彰義隊の墓所として有名になり、多くの参拝客が訪れるようになりました。

さて、円通寺で間近に見る寛永寺の黒門は想像以上に大きなものでした。木製の黒門は穴だらけです。上野戦争時の銃弾跡です。以前、谷中の経王寺の山門にも数多くの銃弾跡を見たことがありますが、いずれも大きな穴で、同じ口径の銃から撃たれたようです。新政府軍の銃でしょうからスナイドル銃(エンフィールド銃)でしょうか? 

画像2

黒門の銃弾跡

黒門の裏(寺側)に彰義隊の墓がありました。帽子を脱いで、しばらく手を合わせました。黒門に近い方には、松平太郎、高松凌雲、榎本武揚、大鳥圭介、新門辰五郎などの碑があります。僕は土方歳三とともに最後まで戦った松平太郎と吉村昭さんの小説「夜明けの雷鳴」で描かれた高松凌雲以外には興味がありませんから碑を眺めるだけです。それに、お墓じゃないですからね。彰義隊の隊員さんたちは、榎本武揚と大鳥圭介は嫌いでしょうね。僕も嫌いです。

画像3

彰義隊の墓

気になったのは黒門の近くに立つ“子どもを抱いた大きな地蔵”でした。このお地蔵さまは昭和に起こった大きな事件の被害者を供養するために建てられたものでした。

次回に続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?