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「貧困と富裕 備忘録」6

「横浜開港」

文久3年(1863)に横浜にイギリスのセントラル銀行とマーカンタイル銀行が横浜支店を設けた。翌年の元治元年(1864)にはP&O汽船会社が上海と横浜間の定期航路を開設した。

幕府は安政5年(1858)末から江戸や近隣地域の商人たちに横浜での開業を勧めた。多くの商人たちが出店を願い出た。翌安政6年には横浜主要商店71軒のうち、34軒が江戸商人だった。しかし、大商人の出店が少ないことを案じた幕府は御服物商いの三井が含まれていた。三井は消極的だったが、貿易関係の公金扱いを独占できる条件が付いたことで横浜に出店を決めた。

安政6年下期には銀822貫目を売上げ、銀49貫目の利益を出す…ということは単純に計算すれば、原価は銀773貫目となる。もの凄く低い粗利率だが、これで大商人となれるのだから、裏に何かがあるのだろう。しかし、以降は業績不振となり、文久元年(1861)には遂に赤字となってしまった。文久2年には呉服商いをやめたが、三井の外国方御金御用達業務は拡大した。預かり金を横浜生糸商へ貸し出すなど、横浜では指折りの金融機関となる。

「中居屋重兵衛」

文政3年(1820)に上州吾妻郡中居村(群馬県吾妻郡嬬恋村)の名主黒岩家に生まれた重兵衛は、天保10年(1839)に地元を出奔。江戸の書店・和泉屋善兵衛方で働きき、嘉永2年(1849)頃に独立して書籍と薬品を扱い、さらに火薬製品も扱うようになった。

その後、三井同様に幕府の勧めで横浜に出店し、奉公人60人を使って生糸やお茶を売り込んだ。さらに生糸商いでは大きな力を持つようになった。故郷の上州や信州から生糸を仕入れて巨利を得る。

しかし、巨利を生めば、疎まれるようになるのは必然で、文久元年には、幕府の嫌疑を受けて営業停止命令を受け、財産まで没収されてしまう。重兵衛は水戸藩とは親密な関係にあり、当時の大老・井伊直弼とは敵対していた。そのため、安政7年3月3日(1860)の桜田門外の変で、暗殺犯の水戸浪士たちが使った拳銃は、重兵衛がイギリスから輸入した物とも言われている。

中居屋が失落したのはライバル三井の謀略でもあったのだろうか? ちなみに三井は幕府の御用商人だ。

*僕は子どもの頃から数字が苦手で、算数、数学の試験は常に0~10点だった。少なくとも点が取れているときは、テキトーに書いた答えが当たっただけのことだ。




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