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古き事を記す3「女帝」

天皇の話である。

天照大神は天皇血統の始祖である。しかし、神話の世界での話である。実在したかは知らないが、始祖ということになっている。開祖は女帝だった。

中国の三国志のなかの『魏書』巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の一部に倭の記述がある。魏志倭人伝である。魏志倭人伝には、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)と台与(とよ)が国王に就いたと書いてある。三国志は中国の正史であるはずなので、卑弥呼と台与というのは実在したのかもしれない。邪馬台国がどこにあったのかもわからない(九州王朝であるとも大和畿内であるとも言われる)が、いずれにしても女帝である。

天皇は男系で一系を成していると思いがちだが、実は推古(593~628)、皇極(642~645)重祚して斉明(655~661)、持統(690~697)、元明(707~715)、元正(715~724)、孝謙(749~758)重祚して称徳(764~770)、明正(1629~1643)、後桜町(1762~1771)という前例がある。

それだけではない。推古天皇以前にも第14代天皇・仲哀天皇の皇后・神功皇后(日本書紀では卑弥呼にあてているが実在しないと言われている)が、仲哀亡き後に幼帝だった応神天皇の代わりに天皇の職務を務めたと言われる。さらに、第22代天皇・清寧天皇が崩御したあとに皇太子の2人(のちの仁賢、顕宗)が即位を譲り合って即位しなかったので、顕宗の姉である飯豊皇女(允恭天皇29年?~清寧天皇5年)が、短期間天皇の職務を務めたと考えられている。

さらに第28代天皇・宣化天皇(467~539)亡き後、次の欽明天皇の即位前に第27代天皇・安閑天皇の皇后・春日山田皇女が即位を要請され、短期間職務を務めたと言われる。当時の欽明は30代であったから幼帝ではないから中継ぎとも思えない。この背景には欽明天皇即位への不満分子が存在するなどの政治的な背景があったと思われる。(集英社版・日本の歴史「古代王権の展開」)より。

神宮と飯豊の例から女帝は、男系天皇即位までの中継ぎと言われるが、僕はそう思わない。それぞれに天皇継承にまつわる政治的背景があったのだと思われる。

推古天皇即位時には、竹田皇子(敏達天皇と推古天皇の子)、厩戸皇子(聖徳太子、用明天皇の子)の2人がいたが、結局、推古天皇が即位した。竹田と厩戸のふたりは即位できずに共に謎の死を遂げている。

もうひとり倭姫命(やまとひめのみこと)がいる、第11代天皇の推仁天皇の皇女で、第10代崇神天皇の皇女であった豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代(神や天皇の杖代わりとなって奉仕する者)として、大和から伊賀、近江、美濃、尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる。日本武尊が東夷討伐に向う際に草薙の剣を与えた話は有名である。

魏志倭人伝の卑弥呼ではないか?という説がある。卑弥呼というと、もうひとり、神功皇后も候補にあがるが、神功皇后は皇極(重祚して斉明)ではないか?という説もある。660年に百済が唐と新羅によって滅ぼされるが、この百済から助けを求められ、斉明天皇は筑紫の朝倉宮(福岡県朝倉市)に移り、船団を朝鮮半島に軍事派遣することになるが、斉明は朝倉宮に遷幸直後に崩御してしまう。その後、大和軍は白村江(はくすきえ、はくそんこう)での戦いに敗れた。神功皇后の三韓征伐のモデルになったのではないか?と言われている。

昔は皇位継承に関わる陰惨な争いがあったが、今はどうだろう? 男系継承が重要視され、女帝を避けようという動きだが、僕個人としては、今の時代こそ女帝即位ではないか?という考えである。


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