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カルチャースクール覚書3

木曜日に行なった文章講座では、僕が文芸同人誌「破滅派」に掲載していただいた「風を供物に」を読んでもらい、その感想文を書いてきていただくというものでした。

教材として既存の有名作家の作品を使うことはできないので、僕が書いた文章を教材としたのですが、実はこれは危険行為なのです。

従来のカルチャースクールの講師たちは、自分が書いた文章を見せないのです。自分の文章力を見せたくないからです。有名作家さんたちが講師を務める場合は、受講生さんは何の疑いもなく(笑)講師の話を聞きますが、無名講師の場合は厳しいですね。実力を見せるということは「講師として資格があるか?」という評価されてしまいますからね。僕はそれで何人も受講生さんを失ってきました(笑)。

以前、僕は、受講生さんと一緒に文章を書いていました。受講生さんだけでなく、講師としての自分の文章力を見せておくべきだと考えたからです。それで受講生さんが辞めても仕方がないのです。受講生さんと一緒に文章を書くことは僕にとっても凄く勉強にもなるのです。

人生は死ぬまで勉強なのです。

講師は尊敬されなくてもいいから、「文章をアドバイスできる講師」として認めていただきたいですよね。ただそれだけです。

破滅派

それでは、以下に一番要点を衝いたAさんの感想文をご紹介します。そのあとに僕の「風を供物に」も再掲載します。

これから、やっと自分で世話ができると喜んだ妻の思いは突然にたたれる。「僕は人の運命の儚さと残酷さを改めて感じた」という言葉が心に響く。

誰も予期していなかった突然の死は人を混乱させる。どう受け取めれば いいのだろう。どうしたら受け入れられるのだろう。死んでいく側の人と、残された側の人と、それぞれ言える事ではあるが、前者については想像する事しか私にはできない。苦しいか痛いか、怖いか、死にたくない 逆に苦通から解放される安堵感なのか。

しかし後者についてはわかる。今でも私は「亡くなった母の事を考えている。時間と共に濃度は薄くなってきてはいるが、体のどこかに小さい固まりにな て残っている。

「お父さん.本当にごめんなさい!」と泣き叫ぶ妻の思いは残された側のしかかけがえのない存在を失う者の思いだ。後悔と感謝と、愛憎やらがぐちゃぐちゃになって出た思いなのだ。そして、「死」は残された者に記憶という形で存在していく。

火葬場を出る時に 「お父さん.風子お母さんが迎えに来たよ」と言って笑った妻は本心、ホッとしたのだと思う。しかし、それは残った者としてやらなくてはならない火葬という儀式が終った安堵感であって、父へのいろいろな思いは、思い出という形をとりながらこれから始まるのだと思う。そして、その記憶の再確認によって、妻はお父さん、ありがとう」と言うだろう。


*「風を供物に」消雲堂

1.

 「俺か?」それまで黙って無表情だった義父が、スマートフォンの液晶モニターに映った自分の写真を指差して”自分なのか?”という意思表示をした。
 「そうだよ」僕は、子どもを愛でるような思いで義父の顔を覗き込んだ。久しぶりに反応した義父を見て凄く嬉しかった。おまけにこの時の義父はあどけない子どものような目をしていた。自分の子どものように愛おしい気がするのが不思議だった。
 「年とったら子どもに戻るって言うじゃない。お父さんは子どもに戻ってるんだよ」妻の請子はよく言う。そのたびに僕は「子どもに戻るのとは違うんだよなぁ…」と、曖昧な返事をする。妻が子どもに戻っていると言いたがるのは、まだ義父がまともだった若いころに”救い”を求めているような気がするからだ。請子にはそういうきらいがある。認知症は風邪と同じで、いつかは治癒する病気であると思い込みたがっているのだった。
 この日、僕と請子はK市にある介護付き老人住宅に入居している義父の面会に来ていた。
 義父は今年の冬に倒れてから認知症状が酷くなり、認知力の低下だけでなく排尿も自力ではできなくなっていた。尿管にバルーンカテーテルと呼ばれる尿道を拡げる管を挿入して尿バックに強制排尿させる必要があるのだが、管の挿入は「医療行為」になるので、医療従事者以外の手ではできない。請子は「私が自宅で介護したい」と職業訓練で介護職員初任者研修の資格までとったが、この医療行為を伴う義父の在宅介護は不可能だった。
 罹りつけの東京の病院に3ヶ月入院した後、埼玉県にある認知症専門病院を紹介されて転院させたが、ここも3ヶ月後には退院させられてしまう。そのため僕と請子は退院後の受け入れ先を必死で探した。
 そんな時、僕たちが住むK市の市役所で介護付き老人住宅施設の存在を知った。僕たちは何度か施設に通って面談し、ようやく義父をその施設に入所させることができた。また、この月の18日は義父の誕生日であり、施設では入所早々に誕生日を祝ってくれている。請子は自分の近くで父親の世話ができることを心から喜んでいた。
 ただし、認知症の症状は日増しに進み、時折、名前を呼ぶと返事をすることがあるものの会話は成り立たなくなっていた。この日は、義父が僕に対して意思表示したことから僕は義父と会話した気になっていた。その時、請子は施設の事務員と話をしており部屋にはいなかった。
 施設を出て自宅まで歩いている時に請子にその話をすると「いいなぁ!お父さんは実の娘の私とは口もきいてくれないんだもん」と言って頬を膨らませた。
 それから3日後に義父は死んだ。

2.

 その日、早朝に電話が鳴った。まだ覚醒しきっていない眼をゴシゴシとこすりながらベッドから起き上がって、そのまま電話の音を聞いていた。僕の横を見ると寝ているはずの請子がいない。仕方なく電話に出ようとすると、先に請子が受話器を取っていた。外にゴミ出しに行って帰って来ると、電話が鳴っていたので受話器を取ったらしい。僕は請子の声を聞きながらヨロヨロとベッドから降りて電話がある居間のソファに座った。
 「おはようございます。あ、お世話になっています。何かありましたか?  あ、はい、は、はいはい…ええっ!」と叫ぶと、請子はその場に泣き崩れてしまった。慌てて「どうした?」と駆け寄っても返事をしないので、請子の手から受話器を取って電話に出てみると、義父が入居している施設の所長の声が聞こえた。
 「あ、ご主人ですか? あのう…申し上げにくいのですが、今朝、担当者がお父様の部屋に入ったら、お父様がベッドの上に倒れていて、既に心肺停止状態だったんです…それで、ご契約の際に万が一の場合には延命処置をとらなくてもよいということだったのですが、この場合、どうしたらよろしいかと思いまして」と言う。(多分義父は死んでいるのだろう。はっきりと死んでいると言ってくれればいいのに)と僕は心の中で呟いた。何となく義父の死が間近に迫っていることを予想はしていたけれど、それがあまりにも早すぎて驚いた。この施設に入居したばかりで、しかも、義父はこの間、誕生日を迎えたばかりだった。僕は人の運命の儚さと残酷さを改めて感じた。
 「あ、そうですか。うーん…でも、一応、救急車を呼んでいただけますか?」
 「あ、あ、そうですかぁ…やっぱりそうですよね。はい、わかりました、それではすぐに施設にいらしてください」電話を切ると僕たちはタクシーを呼んで施設に急いだ。
 なぜかこの日は施設までの道のりを遠く感じた。タクシーの車窓から見える街の風景も、いつもとは違って見えた。隣の請子を見ると最悪の不幸を予測して泣きじゃくっている。僕は肩を抱いて「大丈夫だよ」と声をかける以外なかった。
 僕たちを乗せたタクシーが施設に着くと、救急車が義父を乗せずに空の車で戻る準備をしているところだった。請子が救急隊の男性に「父は助かりますか?」と聞くと、男性は無言のまま首を横に振った。「ああ…」と倒れそうになる請子を支えながら、義父の部屋まで歩いていくと、部屋の前に立っていた救急隊の男性が中に招き入れてくれた。遺体の傍に駆け寄ろうとする請子を救急隊の方が両手で、そっと制して「申し訳ありませんが、検死のために現場保存する必要がありますので部屋のものやお父さんが身につけているものには触れないようにお願いします」と言った。
 義父のベッドの下には電極パッドがむき出しになったAED装置が転がっていた。
 義父は、ベッドの上にパジャマ姿で仰向けで硬直していた。右足が少し突っ張るように伸びて、シーツを下方に押し出していた。頭は枕からずり落ちて、両目を見開き、口を大きく開いて、突然やってきた死の瞬間を「信じられない」と叫ぶように天井の一点を凝視していた。
 「お父さんっ!」請子は父の傍らに崩れ落ちて号泣した。僕は彼女が倒れないように支えながら「大丈夫、お父さんは自由になれたんだから、お義母さんに会いに行ったんだから」と言って彼女の気を静めようとした。義母の風子は12年前に死んでいる。義母は風の子、風のように精一杯飛んで死んだ。
 請子の肩を抱き支えながら、義父の表情を伺ってみた。先ほど見た苦悶の表情が少し和らいだように見える。「お父さん、お父さんっ!」泣き叫ぶ請子は義父のベッドの枕元に両肘をついて義父の顔を間近に見ながら「お父さん、本当にごめんなさい!」と言うと、そのままバランスを失ってその場にへたり込んでしまった。
 僕は義父の苦悶の表情を凝視しながら「苦しかったの? 可哀想に…」と言ってみた。元気な頃の義父ならば「苦しくなんかねぇよ」とひねくれた返事が返ってくるのだが、今の義父の表情はあまりにも苦しそうで、とてもそんな元気な返事が返ってきそうに思われない。その姿があまりにも哀れに見えた。
 「迷惑ばかりかけてごめんね」と心の中で呟きながら義父の禿げ上がった頭を撫でた。皮膚は冷蔵庫の中に長く放置されたリンゴのように冷たい。今度は頬に触れてみた。硬いゴムの表面に、薄いこんにゃくを貼り付けたような触感だ。それでも手の平で温めれば体温が戻ってきそうな感じだった。
 そこに警察だと思われる人間が4~5人入って来て「ご家族の方、大変申し訳ないのですが、少しの間、部屋の外で待機していてください」と事務的に言った。
 義父から離れようとしない請子を立たせて、支えながら施設内にある談話室のソファに腰を下ろした。請子はハンカチで顔全体をおさえながら「うううう…」と嗚咽している。僕は少しでも慰めようとして普段は口にしないような自分でも気恥ずかしくなるような言葉がいくつも口から出てきて思わず赤面してしまった。
 現場検証が終わると、亡骸は検死のためにK市の警察署まで運ばれて行った。病院以外で死ぬと事件性がないかを調べるのだ。数時間後に請子が警察署まで亡骸を引き取りに行って戻ってくると、義父の目も口も閉じられ、苦悶の表情は消え、眠っているような穏やかな表情に変わっていた。


3.

 僕たちには義父の葬式を行う費用がなかったため、結局、火葬だけ行うことになった。
 火葬の日は関東地方を台風が通過中で、僕と請子はビニールの合羽に身を包んで激しい風雨の中を施設まで歩いた。途中でコンビニの大きな看板が吹き飛ばされて歩道に倒れていた。  
 施設では好意から義父の「お別れ会」をしてくれた。施設の職員と入居者が50人ほど集まって義父の死を悼んでくれた。
 ほどかれて1本ずつに分けられた供花は次々に義父の棺に入れられて、義父はたくさんの花の中に埋もれた。柄にもない花に包まれた義父の表情はなんだか滑稽に思えた。
 遺影を抱いて霊柩車に乗り込む請子に僕は「頑張れよ」と声をかけた。「何を頑張るの?」と言って笑った。久しぶりに彼女の笑顔を見た。笑顔の請子を乗せた霊柩車は静かに走り去った。僕たちもタクシーに分乗して火葬場に向かった。台風は既に通過して青空に太陽が浮かんでいた。
 僕たちは火葬場の骨上げのための狭い部屋で焼かれた義父の骨が運ばれてくるのを待っていた。ガラガラガラと外から大きな音が聞こえると、自動扉が開いて義父の骨が乗った大きな金属製の台車を請子が運んで来た。その骨を運ぶのは遺族の役割だった。
 僕は台車の上の義父の骨を見て驚いた、両足の骨は大腿と脛がそのままの形で残っていたからだ。それは実物大の人骨の標本のようだった。
 骨上げを終えると火葬場の担当者が「脚の骨がしっかりしていたからでしょうね。私たちもあまり見たことがないです」と言いながら、大きな骨をガツンガツンと砕きながら無造作に骨壷に押し込めてしまった。請子は複雑な表情でそれを見ていた。
 すべてを終えて僕たちが火葬場を出ると、強い風が吹いて台風に振り落とされた落ち葉を舞い上がらせた。請子が「お父さん、風子お母さんが迎えに来たよ」と言って、また笑った。



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