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妄想邪馬台国 外伝:壬生氏のこと

僕には恩人が数人います。僕の生活を支えてくれた方々のことを恩人と呼んでいます。そのひとりに壬生という名字の方がいます。珍しい名字ですね。“みぶ”というのは何だか日本っぽくない響きです。由来は何なのでしょうか?そういえば僕が個人的に研究している新撰組にも壬生が登場します。彼らの最初の屯所は京都の壬生寺にありましたね。京都の壬生は湿地であったことが由来のようです。
 
壬生(みぶ)は、水辺、水生(みぶ)の意味で、泉や低湿地も意味します。後に「壬生」の字を当てた地名、そこを出自とする一族や集団を指していました。

一族、集団?

朝廷における皇子(皇太子)の世話や養育を行う子代(こしろ:天皇が皇子のために設置した)である乳部(これでもみぶと読みます。壬生部→みぶべからの転化を含み、各地に点在する古代氏族の壬生氏は、この壬生部に由来していると言われます。壬生家には以下のような有名家系があります。
 
①        壬生家 (中御門流):藤原北家中御門流。羽林家の家格を有する公家。維新後に華族となり、伯爵。
②        壬生家 (小槻氏):小槻宿禰。官務家を称した地下家。維新後に華族となり、男爵。
③        壬生家 (下野国):下野国を拠点に活動した武家。
 
以上の壬生家との関係は不明ですが、承和8年(841)に出された太政官符太政官が管轄下の諸官庁・諸国衙へ発令した正式な公文書)、太政官(律令制における最高国家機関)が、「類聚三代格 るいじゅうさんだいきゃく」(平安時代の法令集)と、六国史のひとつ「続日本後紀」に以下のような記事が残っています。面白いので以下に転用してみます。
 

◆埼玉県熊谷の壬生吉志福生(みぶきしふくせい)の話


 まず、壬生吉志の吉志とは何でしょう?日本古代の姓(かばね)の一つで、吉志、吉師とも表記され、古代朝鮮において首長を意味する称号が渡来人の称号として日本で用いられ、やがてそれが姓となり、氏名となったといわれます。
吉士を姓とする氏族には,日鷹吉士,難波吉士,調(つき)吉士,三宅吉士などがあり、吉士を氏名とする者とならんで、ある者は百済に派遣され、ある者は新羅・唐へ派遣されるというように、対外交渉の任務に就いた者を多く輩出しています。
 
「壬生吉志福生」
 
壬生吉志氏は、推古天皇15年(607)に設定された壬生部(皇子の養育係)の管理のために北武蔵に入部した渡来系氏族といわれます。男衾郡(現在の埼玉県熊谷市、深谷市周辺)の開発にあたり、郡領(大領、領主)氏となったようです。この福生に関する記録には以下のようなものがあります。
 
まずひとつは、『類聚三代格』に記録されている記事です。
 
承和8年(841)5月7日太政官符に榎津郷戸主外従八位上の肩書で、才に乏しい息子2人の生涯に渡る税(調庸・中男作物・雑徭)を前納することを願い出て「例なしといえど公に益あり」との判断から認められているのです。福生が自分は年老いているからこの先どうなるかわからない、残された息子2人を心配して一生分の税金を前納したのです。
 
一生分の税金というと、現代では所得税と住民税で2700万円。そこに消費税や固定資産税等を入れると、約5000万円ほどになるようです。2人分だと約1億円になりますね。福生は役人ですから、その額は少なくなるのか多くなるのかはわかりませんが、いずれにしてももの凄い財力です。
 
もうひとつ日本六国史のひとつである『続日本後紀』にも壬生福生の名が出てきます。
 
承和12年(845)に神火(不審火のこと)で焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を申し出て認められているのです。七重塔の建設費用はどれほどになるのか想像もつきませんが、現代で言えば木造の塔では一層あたり1~2億円かかるそうです。首都圏の五重塔ではゼネコンが10億円で受注したということです。それが七重塔ということですから14億円でしょうか?木造の塔と言ってもそれぞれ規模なり構造なりが異なるでしょうから一概には言えませんが相当な額の建築費がかかることがわかります。
 
壬生吉志福生の居住地の榎津郷が現在の何処に比定されるかわかっていませんが、荒川右岸の熊谷市域から深谷市域にかけての地域の可能性が高いそうです。近年、発掘調査が行われた熊谷市の寺内古代寺院跡は、壬生吉氏の氏寺であった可能性が高いそうです。「花寺」と書かれた墨書土器が出土しているこの寺院は、8世紀前半から10世紀後半にかけて存在した本格的な伽藍配置を持つ大規模な寺院であり、9世紀前半に伽藍の整備・拡張を行っていることが発掘調査で確認されていることから、壬生吉志福正がこの寺院の経営に当たっていた可能性が推測されます。
 
熊谷デジタルミュージアムサイトを参照。


◆神奈川県高座郡の壬生直(みぶのあたい)黒成の話

壬生福生と同時代を生きていた壬生氏には壬生直黒成という人がいます。これも続日本後紀に記録されています。
 
現在の神奈川県にあたる高座(古代はたかくら、今はこうざと読む)郡の郡司は、壬生(みぶ)氏だろうと考えられています。郡司というのは郡の役人で、いくつか階層がありますが、一番上の大領(だいりょう)が壬生氏だと考えられています。

『続日本後紀』には、承和8年(841)段階の高座郡司として壬生直(みぶのあたい)黒成という人物が出てきます。当時、壬生氏が郡司だったことがわかります。
郡司の職は世襲制であり、代々、壬生氏が就任していたのではと思われています。
 
同時期に相模川の西側の大住郡の大領にも壬生直広主がいました。当時の壬生氏は、かなり大きな力を持っていたと思われるのです。

承和8年(841)、相模国高座郡大領外従六位下勲八等・壬生黒成は、土地の貧民に代わって「調布三百六十端二丈八尺、庸布三百四十五端二丈八尺、正税一万一千一百七十二束二把」を貢進しただけでなく、飢民に稲五千五百四束を支給したことが記録されています。戸口の増益は三千一百八十六人(そのうち不課口二千九百四十七人、課口二百三十九人で、不課口が多い)。
律令制において,課役負担を負う者を課口,負わない者を不課口という。
*戸口:戸(こ/へ)とは、律令制において戸主とその下に編成された戸口と呼ばれる人々から構成された基本単位集団のこと。か皇族・官人・僧侶,重度の身体障害者・病人,家人・奴婢 (ぬひ) などをいう
このことによって壬生黒成は、外従五位下の位を得ることができました。壬生福生も壬生黒成も圧倒的な財力を持ち、投資総額も巨大であることがわかります。
 
参考資料:中公文庫「日本の歴史 4巻 平安京」

これが邪馬台国に関係あるのか? 壬生が朝鮮渡来であるということが全く関係ないこともないのです。



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