見出し画像

過去ブログの記事から「彰義隊」

芳賀ひらくさんの「江戸東京地形の謎」に併せて、朝日新聞社による「大江戸俯瞰図」を見ていました。

有名な話ですが、江戸の都市計画を手がけたのは怪僧天海です。彼は会津蘆名氏(桓武平氏、三浦系)の出で、坊主なのに天台密教だけでなく陰陽道にも精通していました。ごった煮宗教呪術ですが、日本人はいまだにこういう発想が得意です。

彼は江戸の鬼門にあたる上野に寺を作りました。京都の鬼門に位置する最澄が開いた比叡山延暦寺に倣って東叡山寛永寺としました。徳川家の菩提寺の一つで6人の将軍が眠っています。

延暦寺の近くには琵琶湖があり、竹生島(ちくぶじま)があるのを模して、不忍池を琵琶湖に見立て弁天島も作りました。京都のミニチュア版です。そういえば上野の山には京都の清水寺を模した清水観音堂もあるんですよね。

それだけでなく京都の天皇も模して、天皇の血族を寛永寺に輪王寺宮として置き、いざという時に東の天皇として擁立するつもりだったのですが、幕末にはそれを実践して新政府軍に笑われるというお粗末な結果となりました。上野の山には彰義隊がこもりますが、偽物の錦の旗まで作り、明治天皇を意のままに操れるほど非礼な輩にとって上野のミニチュア京都には何の威厳もなく、彼らは東大の丘からドカンドカンとアームストロング砲弾を撃ち込んであっという間に(現実には大半が不忍池に着弾し、全然、効力がなかったという話もあります)ミニチュア京都を壊滅させてしまいました。

徳川慶喜は、新政府軍の勢いに圧倒され、大阪から江戸まで逃げ帰ると「恭順」を決めて、水戸に引き上げる前の2ヶ月間ほど寛永寺に蟄居していました。その間に和宮、篤姫、寛永寺の輪王寺宮などを使って新政府軍に命乞いをするのですね。

2014年個人ブログから転載


*アームストロング砲(wikipedia):日本では司馬遼太郎の書いた小説で当時の最新最高の兵器として活躍したことから有名になったが、その威力に関してはかなり誇張されたフィクションであり、史実では大活躍したとは言い難い。日本で輸入使用されたのは主に6ポンド軽野砲であったが口径は64mmに過ぎず、これは当時の日本で主力洋式野戦砲だった四斤山砲(前装ライフル青銅砲・口径86.5mm)よりも小口径である。射程や発射速度では上回るものの、榴弾威力で特段優るわけではなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?