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「年収100万円で生きられるのかな?」

前回の目黒での打ち合わせで、会社経営者のTさんから「これあげるから読んでみて」と1冊の新書を渡されました。吉川ばんびさんの「年収100万円で生きる」(扶桑社新書)でした。

「これ読むと、うつ病になっちゃうよ」と言って笑います。Tさんはこれまでの僕の貧困さを知っていますから、この本を読んで何か僕に伝えたいことがあるのでしょう。

昨年に刊行された本で、昨年度はSNSで話題になったようですが、僕は知りませんでした。格差社会における貧困事例集なのですが、読んでみると「嘘のような本当の話(なのでしょうね)」ばかりで、人と話すときに必ず軽々しく「自分は貧乏だ」を連呼する僕へ、Tさんからの戒めなのでしょうかね。

読んでみると、貧困ゆえにトランクルーム、ネットカフェ、軽自動車、マクドナルド、空き家などに暮らす(過ごす)人たちや、憧れの田舎暮らしで失敗した人、収入差から周囲から孤立し、イライラをあおり運転にぶつけてしまった人等々、読了すると鬱病になる人もいるんじゃないか?と思えるような内容です。

要は“自己責任論”に片付けられそうな人々なのですが、人生というのは悪戯な運命で構築されていますから、実は誰にでもあてはまる事なのですね。今、たまたま幸運に生活できている人でも、または家族であっても一瞬の気の緩みや、「病気」「事故」「愛情の喪失」「不景気」「感染症パンデミック」「天災」によって人生は大きく変ってしまうのです。

弱者や不運な人に対して「自己責任」を唱える人々は自分たちが置かれた環境が『たまたま幸運だけ』という認識を忘れてはいけません。いつでも誰でも不幸になる起因は、そこらじゅうに転がっているのですからね。そして誰もが「不幸にならぬよう」万が一の際の準備を怠ってはいけません。

万が一の際の準備とは…? 決まっています。蓄え以外にはありません。残念ながら日々の生活に1円の余剰も出ない我が家には無縁の『貯蓄』です。万が一の場合には、お金を使うしか道はないのです。だから貯金するんです。

さらに常日頃の行いの“清浄化”です。正しい行いを心がけること。極端すぎるかも知れませんが、まずは江戸時代の武士のように「いつ死んでもいい」と心がけることが「つまらないことで死ねない」という意識に結びつき、日々の生活に隙が出ないように生きるのです。呑む打つ買うなんて愚の骨頂です。こんなものに夢中になっていると地獄を見るに決まっています。品行方正、純粋な気持ちを忘れずに、不倫もせず、脇目も振らずに一心不乱に働き、行き帰りの交通事故やその他の多様な事故に注意し、極端ですが、結婚もせず、子どもも作らず、家も車も買わず…あらゆる危険因子を排除していくんです…それは無理だろうな(笑)。

著者の吉川ばんびさんは『貧困問題は社会構造的要因がほとんどであるにもかかわらず、その責任の所在は「貧困に陥った当事者にある」と国民が考えているのは異常な事態だ』と書きます。

弱者に対して自己責任論を吹聴する政権の歴史はそれほど古くはないのです。太平洋戦争後の昭和30年(1955)に自由民主党が誕生して第1政党となって以来のことですから僕の半生と殆ど変りません。

それでもかなりの長期政権になることは間違いありません。長期政権は腐敗を招きます。そのために折々に政権交代が行われるものの、ほとんどが保守的な職業政治家による茶番であり、何の変化も見られませんでした。経済界に癒着して腐敗は続き、弱者に対する差別は相変わらず行なわれています。しかし、資本主義社会とはこういうものなのです。

「実体験に価値がある」

第五章の「自己責任国家に生まれて」には、経済学者・伊藤修氏の「日本の経済ー歴史・現状・論点」(中公新書)から以下のような部分が引用されています。

『貧富の差を生み出す要因について、生まれた時点での富、素質、運、努力の4つを挙げている。しかし、「努力が富を生む」「努力の差が貧富の差」という命題は間違いであり、富が本人にすべて帰属するという根拠はないと指摘する。

さらに経済学の用語に「貧困の悪循環」というものがある。一度入ってしまうと外部からの介入がない限り継続する貧困の要因・事象のことで、「貧しい家族は貧困状態が三世代にわたって続く」と少なくとも定義づけされている。こうした家族には貧困から脱出するために必要な、教育などの「知的資本」、学歴や文化的素養となる「文化資本」、コネクションなどの「社会的資本」を持つ親族がいなくなっているため貧困から脱出することが実質不可能である。できたとしても長い年月を要する。

生まれついての富裕な者は、無能力であっても、大概は何の苦労もせずにある一定の地位に安定して一生を終えることができるが、生まれつき貧困な者は、知的資本も文化資本も社会的資本のいずれとも縁がない。

それゆえに貧困な者の中には、努力しても実りのない人生に見切りをつけて犯罪に手を染め、いつしか闇社会に生きて、一攫千金のために命を賭けて結果的には不幸な結果に結びついてしまうという者も多いのではないだろうか?

しかし、生まれつき富裕でも好き勝手我が儘に育てば、自分の思い通りにならぬ際には犯罪に手を染めてしまう可能性も高くなる。世襲政治家というのは村代表であると僕は思う。

さて、「年収100万円で生きる」である。

著者のばんびさんは、ごく普通の家庭に生まれたが、突然発生した阪神淡路大震災によって家を失ったばかりか、家族関係も崩壊の一途を辿ったという実体験があります。それが綴られている第五章は、本文の貧困事例群より現実感があって泣けるのです。

何不自由なく育ち、好き勝手ばかりして生きてきて、気づいたら貧乏だったという僕のような人間から見ると、非常に清廉な感じがします。

僕のような業界誌あがりの自称ライターではなく、彼女の行動力や文章力から、プロのライターとはこういうものだというのが、彼女の不運でだった実体験から伝わってくるのです。

そういえば、目黒の師匠は、僕がさんざん貧困な生活を送ってきたものだと思っていて「君も自分の貧乏話を本にすればベストセラーになるかもしれないぞ」と笑うのだが、「僕の話なんか誰も読みませんよ」と言うと「それは間違いだよ。人は不幸な体験談が読みたいんだよ」と真顔で言うのですよ。

僕の貧乏話を本にしたい出版社さんがあれば、声をかけて下さいな(笑)。

そうそう、皆さんは、人生の一瞬の隙に「不運な世界」に招き入れられてしまわぬように常々ご注意下さい。

次は、斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』を紹介しますね。

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