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妖の間(あやかしのま)

佐藤健太郎(31歳)は、25歳の時に「翔理」という小さな飲み屋を妻の理恵(28歳)と夫婦で始めた。以後、約5年間、馴染み客も増え、それなりに経営を維持することができたが、昨年、新型コロナウイルスが世界中にまん延して、日本もその影響を受けて長期のロックダウン政策で収入は途絶えた。自家製の弁当を作って、テイクアウトも始めたが、小さな飲み屋の弁当の需要は少なかった。宣伝する費用もなかった。あっという間に弁当も作れなくなってしまった。

そのうちに健太郎は疲労が重なったためか脳梗塞を発症して倒れた。運良く助かったが、重い後遺症が残り、リハビリ治療を行なうことになったが治療費が払えなくなった。

健太郎は自宅療養ということになったが、実質何もやっていない。健太郎の収入がなくなったので、代わりに理恵が近所のスーパーにレジ打ちのパートをするようになった。お馴染みさんばかりだった飲み屋とは違う接客の仕方に戸惑った。今までにないストレスが理恵の精神を蝕んでいった。

一方、健太郎が家事とふたりの子どもの世話を担当することになった。健太郎と理恵には翔太(5歳)と真理(3歳)という子どもたちがいる。子育ては大変だ。男の健太郎にとっては苦手な領域だった。健太郎にも今までにないストレスに精神が押しつぶされそうになっていた。

健太郎と理恵は、つまらぬことで喧嘩をするようになった。翔太と真理はそれを見て泣いた。健太郎と理恵は精神的に疲弊していった。理恵は健太郎に離婚を申し出た。「私たちは、もうだめなのよ」そう言って泣いた。理恵は本気だった。「子どもたちは私が育てる」と付け足した。

「勝手にしろ」そう言って健太郎の心の中で何かが壊れた。

健太郎は「最後に家族旅行をしよう」と言った。理恵は、はじめ渋ったが、これが最後の家族旅行になるならば、子どもたちの良い思い出にしてあげようと応じた。家族は軽自動車に乗って丹沢のさびれた温泉宿に1泊した。

その旅館は分厚い藁ぶき屋根で、がっしりとした作りの江戸時代のような建物だった。

「幻影館へ、ようこそ…」健太郎家族が宿に入ると老婆が出てきた。老婆といっても背の大きく女優のような美しい顔立ちをしている。老婆を見て翔太と真理は健太郎と理恵の後ろに隠れた。

「お世話になります」健太郎と理恵が同時に言った。つまらぬ一致に夫婦は顔を見合わせた。そして久しぶりに笑った。

「ふふふふ仲がよろしいことで」老婆が言った。

「ずいぶん古い建物ですね」健太郎が言うと、「それほど古くはないんですよ。安政の大地震のあとに建て替えたということです。本陣をはじめたのは江戸時代の中期なんですがね」

「へぇ…」健太郎夫婦は、よくわからないのに大げさに驚いて見せた。

「ねぇもう帰ろうよぅ」翔太と真理が駄々をこね始めた。

「あらあら、可愛い子どもたちだこと…。ここではね、言うことを聞かない子はお化けになっちゃうのよ」老婆が笑った。

「嘘だい!」翔太が言った。真理は泣きそうになっている。

「ふふふふ」老婆が笑った。

「お部屋は階段を上って右の突き当りの“妖の間”です」

「あやかしの間?」

「変な名前でしょ? でも、うちで一番広い部屋なんですよ。今日のお泊りは佐藤様だけですから、露天も家族風呂も、いつでも自由にお使いください。夕食の際には、声をおかけしますからよろしくお願いします」と言うと老婆は奥に消えた。

「なんだか気味が悪いわね」理恵が呟くように言った。健太郎も同感だった。

「ネットで調べてここに決めたんでしょ?」

「うん。すごく安かったから、もうここでいいやって…」

健太郎の言葉を聞いて(家族最後の旅行なのに…)理恵はため息をついた。

「ねぇ、もう帰ろうよぅ」ぐずる翔太と真理を「今日はね、おっきなお風呂にお母さんと一緒に入ろう。そのあとには美味しいものがいっぱい食べられるんだよ」と、あやしながら理恵は階段を上った。

健太郎は、3人の後姿を見て涙が出た。翌日、宿を出てから無理心中しようと考えていた。


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