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夏 2015/08/20

「──お陰さんで、禁煙続いてるわ。あの日以来やし、咳のひとつも出るわな」

 さわさわと草を揺らした熱風へ応えるように片山は呟き、深い呼吸と共に暮石へ手を合わせる。あれから八年目の夏──亡き相方・中本栄の七度目の周忌にして片山は、初めて墓参りを前倒した。理由は実に明快で、当日は東京で仕事を入れてしまったからだ。

 表舞台に復帰してからこちら、作家業と芸人業との二足わらじで忙しくなる──と思っていたのは大きな間違いで、自分の身の回りの人間ほど世間は芸人・らんな〜ず片山を覚えてはおらず、まして求めてなどいなかった。

 なので、今は自分に来た仕事はよほどのことがない限り断らない。とにかく思い出してもらうこと。あるいは新しく知ってもらうこと。その二点に注力してなんでもやろう。ということで、マネージャーの淀川とも意見が一致した。

 が。そんな風にしてのべつまくなしに仕事を受けまくっていたら、彼の法事と特番の収録がかぶってしまったのだ。

 そのことに最初に気がついたのも、誰より驚きそして胸を撫で下していたのも、一回り年下の恋人──にして自分の熱狂的ファンである広川秀美だった。

「……あれ、片山さん。来月の十九と二十日って、お仕事入れてはるんです?」

 ひと月前のことだ。皿を洗っていた片山の横で、広川は冷蔵庫に貼り付けたカレンダーにえらく顔を近づけ訝しそうな声をあげた。

「あー、うん。二十日は予備日やけど、特番の収録」

「ちなみに収録って、大阪とかではないですよね」

「いや、フツーに東京」

 いつもより少しだけ早い彼の語調で、言わんとしていることが察せられた。

「ほんまは帰省するつもりやってんけど。収録のスケジュール変わってもうてん」

「そうでしたか。それはそれは……」

「いっぺん引き受けた手前、バラしてもらうんも悪いし。そもそもそんなん言うてられる立場でもないしな。直前に大阪の仕事もあるさかい、そこで時間見つけて手ェ合わせてくるよ。大丈夫」

 片山が努めて淡々と告げた言葉を受けて広川はもう一度、今度は安堵の息とともに「そうでしたか」とゆっくり発した。

「じゃあ、片山さんもボスも今年はゆっくりあちらで過ごせなくて残念でしたね」

「ん? ちんとももそうなん?」

「はい。ひなちゃんの塾の夏期講習と、お式の準備が佳境だからって」

 皿を洗い終えた片山が手を拭いている横で、広川もまた淡々とそう発する。亡き相方の妻だった中本とも代は、再婚して苗字を「太田」に変えた。その後ほどなくして子宝も授かり、久々の新生児育児へ突入する前に!と意気込んでこの秋に結婚披露パーティを開催するべく準備中なのだという。

「身内だけの細々としたパーティ。ってことでしたけど……お二人ともお友達がたくさん居てはるから、どんどん規模が膨れ上がってます」

「想像に易い……しまった。スピーチなんにも考えてへん」

「期待してます。ビデオも回そうかと思ってるんですけど、東京オフラインセンターって業界関係者じゃなくても貸してくれますかね……8Kのカメラ」

「……きょうびのスマホ、動画も画質えぐいで。いつまでもワンセグのパカパカ使ってんと、携帯買い換えたら?」

 片山は照れと呆れの割合二対八くらいの気持ちを込めて言ったものの、広川には今ひとつ響いている様子がない。ずっと変わらずに好きでいてくれるのは有難いが、目の前の人間をそう偶像扱いするのもどうなのだ。と、ほんの少し思わないでもなかった。

 彼のそばにいると、しばしば感じることがある。

 骨ばった硬い肩に寄りかかっている時も、薄い胸と胸同士を重ねている時も、彼に眼差される片山隆二は未だにどこかブラウン管越しだ。それは確かに甘やかな心地ではあるけれど、人間同士の感情、そこにある何か熱いものを交わす実感には飢えて飢えて仕方がない。

 確かに、始め彼に惹かれたのはそんな甘やかさ──それは、そう。もしもの世界に自分を誘ってくれる、ある種の〝甘やかし〟であったかもしれない。しかし他ならぬ彼自身が、片山がその〝甘やかし〟に耽溺することを決して許さず、

「あなたはきっと僕と中本さんの違いにずっと苦しむことになると思うんです」

 と突っぱねたのだ。

 そうだったよなあ!? 確か、そうやったと思うでえ!? と片山はこの一ヶ月間、折に触れ首を傾げてきた。片山があんまり頻繁に首を傾げているので、マネージャーの淀川にも

「ミミズクのモノマネでも研究してるんですか。寒いです」

 と鼻で笑われたくらいだ。

 考えれば考えるほど腑に落ちない。過去の感情に雁字搦めになっていた自分を解放してくれたのは間違いなく彼なのだが、気付けば彼の方が未だ過去の「らんな〜ず片山」に囚われたままで、目の前にいる「片山隆二」をあまり見てはくれない。

 どないやねん! としか言いようのない事態である。とは言え、彼の気持ちもよく分かるのだ。死んでしまった人間というのは、どうしたって美化される。そんな人間との思い出もまた然りだ。自分にも心当たりがないわけではない。

 そういう意味では、美化された中本栄──ひいては「らんな〜ず」の思い出の中に自分が含まれているというのは、ある意味では光栄極まりないことであろう。

 けれど「らんな〜ず」のいちファンである彼には申し訳ないが、私人としての片山隆二にとってはもはやこれは呪いだ。自分で自分にかけた呪い。とも言える。

 片山にはかつて、自身の全てを賭けて全身全霊で愛し通した人間がいた。その想いの強さや成果の鮮烈さが彼を今も囚えたままでいて、皮肉にも呪いとして自分に返ってきてしまった。そんな気がする。

 あっちを立てればこっちが立たず。とはよう言うたもんやなあ。人生、思うようにいった試しがいっこもないわなあ。自業自得やけれども、半分はお前のせいやねんぞ。聞いてんのかコラ。

 濡れた暮石の前にしゃがみ込んで手を合わせ、八つ当たりのようにブツブツと念仏を唱える。

 そうしている内に、亡き相方にしてかつての最愛を偲ぶ気持ちや郷愁より、今現在の自身や恋人に対する「どうしてこうなった!?」という気持ちの方が大きくなってくる。そしてそのことをとっくりと自覚した片山は瞼を上げた。

「……信じられるか?俺は今、お前のことを恋敵やと思うとる」

独り言ちて肩を竦めると、ちびた煙草の煙がゆらりと震えた。そんな気がした。

   *   *   *

 結局のところ、彼の死や彼の思い出、彼の存在に未だ囚われたままでいるのは、片山を取り巻く人間の中では広川秀美ただ一人になった。

 今の自分は過去をひとしきり清算して彼と向き合うことに注力しているし、亡き相方の愛妻であり片山の戦友であったとも代も然りだ。

 彼の忘れ形見である子ども達も新しい家族にすっかり順応しているし、自分たちの信者とも言えたマネージャーの淀川も、今では「あの人は今」な片山よりも飛ぶ鳥落とす勢いの後輩コンビ・赤福氷の更なる売り出しに夢中でいる。

 自分も含め──いや。自分が前を向いたからこそ、らんな〜ずを取り巻く様々な歯車が動き始めた実感があった。けれどその中にあって、彼だけがまだ「今」に追い付いてきてくれない。それが寂しくも、もどかしくもある。

 大阪での仕事のあとに一人きりで短い墓参りを終え、片山はその日の内に新幹線で東京へ戻ってきた。その足で作家業の方の打ち合わせに出席し、その流れで仕事相手と食事をして、マンションへ戻ってきた時には日付を超えていた。

 片山は無人の自宅で誰にともなく「ただいまあ」と呟き、ほろ酔いの幻聴で彼の声を聴きながらキッチンへ直行して、カウンターの目立つところに置いてある尿酸値を下げる薬を手に取った。広川は自分の仕事が休みの時には基本的に片山のマンションで過ごしているが、そうでない時は自宅──あの倉庫じみた雑居ビルの一室で過ごしている。

 医者にも説明されたことではあるが、高尿酸血症──いわゆる痛風は、長期の治療が必要な生活習慣病だ。それはきっと、ほんの一年ほど前の自分には到底付き合いきれるような類の病ではなかっただろう。

 けれど今は自分の生活に世話を焼いてくれる可愛い恋人もいるし、それ以上に、彼のために「まだ死なれへん!」という意識で節制に努めようという自分がいる。

 しみじみと人生に、自分が生きている、生きていくということに、愛情というものが染み込んでくる実感が面映ゆい。こんなことが自分の身に起こるなんて、全然考えたこともなかった。

 同じことを、あの子も感じることがあるんやろうか。と、近頃の片山はしばしば考えている。まさかあのブラウン管の向こうにいた人と! ということではない。まさに今の自分のように、自分を思ってくれる誰かのために健やかでいようとか、自分を大切にしようとか、そういうことを考えてくれる瞬間や努めてくれる瞬間は果たしてあるのだろうか。ということだ。

「……ないやろうな。ないない。はいざんねーん」

 あんまり想像がつかないので、図らずも声に出てしまった。きっと、まだまだ愛し足りないのだ。

 人様をして、そう滅多なことで「可哀想に」だなんて言うものではないだろう。とは思うものの、広川秀美の半生は客観的には恵まれているとは言えない波乱万丈なものだ。

 我慢してきたことも、やりきれなかったことも山ほどあったに違いない。けれどそれらの出来事を彼は健気に乗り越え──る力もなく、ただただ為す術なく、その荒波に揉まれに揉まれ、ただ単に命からがら奇跡的に運良く生き残ってきたというだけのことだ。

 そんな人間が、どうして並大抵の「愛情」に手を伸ばせるだろう。手を伸ばす力すら奪われてしまった人なのに。

 彼にはもっともっと、自惚れてもらわなければならない。そのためにはもっともっと飽きるほど、いっそ引かれたり嫌な顔をされるくらいでろでろに愛情を注ぎ込んでやらなければならない。

 幸いにして彼が今日まで生き延びることができた「幸運」の一端を、仮に自分(と、相方の中本)が担っていたとしたって、そんなことはもはや関係ない。

 偶像には決してできない仕事がある。自らが単に眼差すだけの存在でなく、自分もまた愛情とともに眼差される側の人間であることを解らせてやる。というのは、私人にしか担うことのできない一大仕事だ。

『家帰ってきた。夜の薬ちゃんと飲んだで』

 抜け殻になった錠剤のシートを写真に撮って、短いメールに添えて送る。

『おかえりなさい。お墓参りはきちんと行って来られましたか?』

 間をおかず返ってきたメールからはやはり、彼の自分に対する想いよりも、彼が眼差す片山隆二の在り方への期待の方が強く感じられる。──というのは、あまりに拗ねた受け取り方だろうか。

『行ってきた。盆と被ってるけど、来年はきみも予定空けられるか?』

 一歩踏み込むような気持ちでそう返すと、またすぐに返信がある。

『滅相もないです! 親族でもないのにそこまでさせていただくのはちょっと』

 そんな短い一文に何故かカチンと来て、返事を送る代わりに電話をかけた。

「──もしもし。お疲れ様です」

「仕事気分か! 遅くにごめんやけど」

「あっ、いえ。滅相も」

「なに?よう聞こえへん」

「いえ……寝る間際にお声が聞けて嬉しいです」

 半ばカツアゲのように彼から言葉を引き出して、片山は「よろしい」と電話の向こうの彼を思い浮かべて頷く。

「──とまあ、冗談は置いといてや」

「あ、はい。何か急用でしたか?」

「急用っていうか……墓参り、親戚やなかったら行ったらいかんの?」

 と片山が言うと、広川はまず「あうう」と慌てたように言葉を詰まらせていた。

「あいつからしたら俺も他人やけど」

「……片山さん。それは言葉のアヤやないですか」

「俺はきみが俺らのファンやから特別に墓参りさしたろ思って言ったんちゃうで」

 ほとんど素面の頭でそんなことを言うのはなかなかに照れ臭く、泥酔寸前までアルコールを摂取した時と同じくらい顔が熱くなる。

「俺はただ自分の人生の相方を、漫才の相方にもちゃんと紹介したかっただけや」

 電話の向こうで広川がはっと息を飲む気配がしたので、てっきり何か言い返してくるものと思って身構えた。

 しかし。待てど暮らせど彼は何か言葉を発することはなく、その内に耐えかねた片山の方が先に「え、待って。寝てる?」と聞き返す。

「ままま、まさかそんな! ただ、えっと……あまりにも身に余るお言葉なので、夢でも見てるんかな? とは思いましたけど」

「アホか。夢ちゃうわ。なんぼでも言うたるし、なんなら録音しとけ」

「えっ、い、いいんですか!? すみません少々お待ちを!!」

 と発せられた彼の声が遠くなり、電話の向こうでは何やらバタバタと彼が部屋を駆け回る気配がする。大方ICレコーダーか何かの準備でもしているんだろう。スマートフォンに替えさえすれば通話の録音だってできるだろうに。

 偶像としてそこまで愛されることに満更でもない心地を感じながらも、私人として片山は内心で「厄介オタクめ……」と悪態をついた。本当の恋敵はもしかすると中本ではなく、過去の自分なのかもしれない。

   *   *   *

 そんな「厄介オタク」の彼であるが、肌を重ね情を交わしている時だけは唯一時折とても貪欲だったりする。

 六月の、雨の晩だった。テレビの中の自分は恋人と見るには少々──いや、相当に気まずい場面を演じていて、その晩彼はいつになく激しく片山を抱いた。

 寂しい思いをさせて悪かったな。という申し訳なさより、彼の中にも人柄を豹変させてしまうほどの激情があったのを知れたこと、それをぶつけてくれた嬉しさの方が今でも鮮烈だ。あんまり癖になったので「またああいう台本来えへんかな」と期待すらしてしまうほどに。

 たぶん厳密には、彼よりも自分の方がこの恋愛にのめり込んでいる。本当のことを言えばもっと余裕を持って、なんなら彼の親兄弟代わりのような存在として穏やかな愛を育めたら──と思っていたこともある。が、蓋を開けてみればこのザマである。彼の抱く「愛情」と名前の付くもの。それが注がれているのがたとえ故人だろうがかつての最愛だろうが、過去の自分だろうがなんだろうが癪に触ってしょうがないのだ。

 彼を笑わせるのも、彼に幸福を与えるのも全て自分でないと気が済まない。だからそういられない自分が歯痒くて嫌だ。一回りも年上で酒にだらしなくて痛風で、キャリアだけは一人前だけれど現状はお世辞にも「売れっ子」とは言えない芸人の自分。そんなダサさも、自信を持てない自分も、彼からはずっと隠しておきたい気持ちでいっぱいだ。

 けれどそんなしょうもない見栄も、胸の奥から渾々と湧き上がってくる「会いたい」「触れたい」という欲望の前に砕け散る。そしてその欲に負けて彼の前へ躍り出てしまう自分というのは、やっぱりダサくて弱くて情けない。嫌になるくらい、彼には自分を暴かれてしまう。いつもそうだ。

「──今日のことは本当にすみませんでした。ひとえに僕の確認不足です」

 広川のことを考えながらぼんやり黙っていたせいか、運転席の淀川はひどく済まなそうな声音で発した。

「ん。なに?やっぱり、それでなん?」

「それでとは?」

「いや、別になんっちゅうこともない特番に付いて来んの珍しいなと思って」

 片山がそう返すと、淀川は気まずそうに肩を竦めて「ご明察です」と小さな声で言った。この男もこれでなかなからんな〜ずの「厄介オタク」の一人なので、中本の命日を空けられなかったことをひどく気に病んでいるのだろう。

「……気にしなや。墓参りは昨日済まして来たし。そういう年もきっとこの先、なんぼでもあるやろ」

「明日の予備日、たぶんバラしですけど……飛行機か新幹線取りましょうか?」

「大丈夫やって。ちゅうか、取られへんやろ。この盆のさ中に」

「でも──」

「ほんまに大丈夫やから。……むしろ、ちょっとほっとしてんねん」

 と発した直後、赤信号で車を止めた淀川の視線が横っ面に注がれるのを感じた。

「……と言いますと?」

「ほんまに大丈夫って、ちゃんと確認できた」

 片山がそう返すと、淀川は長い息を吐くように「あー……」と言って何度も頷きながらまた前を向いた。

「だったらいいんですけど。……でも、来年は絶対空けますから!」

「えー? せやから別に──」

「いや、僕が行きたいんで。お墓参り」

「そういうことならまあ……」

「実家にだってたまには帰りたいし……盆くらい休ませろってんですよほんとに。芸人さんはそりゃ『親の死に目にも会わない覚悟』で板の上に立ってらっしゃるかもしれませんけど、僕はタダの会社員ですからね!」

 ぼやきながらもどこか愉快そうに言って、淀川はアクセルを踏んだ。

 特番はスタッフも演者も大体が気心の知れたメンツで、エピソードトーク中心のスタジオ収録だったこともあり、大いに盛り上がるまま時間は押しに押した。

 手応えはあった。けれど同時に、自分にはまだ「独り」であの場に立つ時の振る舞いが掴みきれていない。ということも実感させられた。

 故・中本栄のエピソードを、未だ彼が「生きている」かのように語ってしまうのは病的な悪癖だ。笑えない。そんなことを頭では理解しているつもりだが、脊髄反射で口から飛び出す言葉がいつもあんまり鮮度がいいので困ってしまう。

 それに本当は、コンビで出演している後輩芸人たちが羨ましくて、憎たらしくて仕方がない。そうあれたはずの自分と彼の未来にまだ、凄まじい心残りがある。

 しかし、そこに心を残したままではもういられないのだ。羨ましさも憎らしさも心残りも、全て抱きしめて乗り越えて、きちんと「独り」で板の上に立つ。そんな夢を見せられ続けなければ、きっと救えない人がいる。

 頼りないかも知れない。ダサくて、情けないかも知れない。それでもどうにか頑張っていられるのはひとえに広川秀美のためだ。そのことに少しでも何か感じ入ってくれることがあるとするならもう少し、少しだけでいいから、恋人としての自分を見つめてはもらえないだろうか。

『──もしもし。広川です』

 楽屋の畳の上で机に半分突っ伏しながらかけた電話に、彼もまた少し寝ぼけたような声で出た。

「あ、遅くにごめんな。寝てた?」

『遅くに、というか……さっき起きたところです。おはようございます』

「早っ! って、もう六時過ぎか。時間の感覚のうなってるわ」

 まるで穴倉のようなスタジオで、香盤表の時刻は二十九時とか三十時とか書かれていた。なんだかんだ業界に身を置いて短くはないものの、疲れた頭では咄嗟の変換がなかなかどうして難しい。

『あの……何か急用でしたか? 僕にできることやったら、なんでもしますけど』

 気遣わしげな声でそう言った広川が、じっと息を潜めている気配がする。

「いや、別に用があったわけちゃうねんけど……ちょっと、声聞きたなったから」

 片山が率直に伝えると、彼は『きょ……恐縮です』と声をひっくり返した。そういう反応は面白いし、かわいいので好きだ。もう少し肩の力を抜いてもらえへんもんかね。とは思うものの。

『今はご自宅ですか? それともお仕事中で?』

 広川は気を取り直すように一つ咳払いをして、電話に出た時よりは少ししゃっきりした声で発した。

「楽屋。砧で収録やってん。やっと帰れる」

『そうでしたか。お疲れ様です』

「うん。疲れた」

 と言葉にしたことでどっと疲れが押し寄せて、同時に御し難い「欲」が津波のように自分を飲み込むのを感じる。

「あかん。欲出てきた」

『よく、ですか?』

「君が『なんでもしますけど』とか言うから」

『いや、しますよ。なんですか? 言ってください』

 片山がほとんど吐息で「会いたい」と言うと電話の向こうの広川はきっと、返事をするのも忘れて部屋を飛び出した。

 ばたん! と金属製のドアが閉まる大きな音がしてそれも遠ざかり、次に彼が何段か階段を飛ばしながら駆け下りる足音が聞こえてくる。それからしばらくして広川は電話が繋がったままなのに気づいてか「あぁっ」と独り言のような声を上げ、

『十五分で行きます!』

とだけ言い残して一方的に電話を切った。

「……ふふふふっ」

 彼の率直すぎるひたむきさが面映ゆくて、思わず笑う。想いを寄せた人に、形はどうあれ大切に想われていることが何より嬉しい。かつては板の上でしか得られなかったもの──板の上以外では、どれだけ求めようとも砂つぶほども手の中には落ちてこなかったものを、彼は与えてくれる。

 だから好きだ。ということではない。けれど、自分はこれでよかったのだ。と思うことならできる。彼といると、人として正しくあれる気がする。

 そう。これでよかった。彼に会えて、救われた。それは事実で、自分を含めて誰もが同じように思っている。

 けれどやっぱりあの男の面影は未だ瞼の裏で鮮明すぎるほど鮮明で、ありとあらゆる出来事が「思い出」と言うにはあまりに鮮度抜群で。

 だから今日という日がこんなに暑いと、今の自分は何かいけないことをしているような気になる。

「──ごめんな。大丈夫やから」

 だからなんだろう。汗みずくで自転車に跨っている広川が、片山の顔を見るなり痛ましそうに眉を潜めたのは。

「むしろ僕が大丈夫ではないです」

 眉を少し怒ったような形にさせたまま、広川はTシャツの肩口で汗を拭う。

「心配してくれた?」

「それは、もちろん」

「取られると思った? あいつに」

 片山がからかうようにそう発すると、広川は始め少しだけ目を泳がせた。けれどやがてその問いかけの答えを告げるように片山の手首を強く掴む。

「すみません。車で来られたらよかったんですが」

「ええよ。慌てて来てくれたんやろ?ぼちぼち歩いて──」

「歩くよりは、速いと思うんで」

 広川は右手で自転車のハンドル、左手で片山の手首を掴んだまま、いやに強情な目をしてそう言った。

   *   *   *

 何十年ぶりかに乗った自転車の荷台はやっぱり小さく不安定で、また彼の運転もよろよろとぎこちないものだったので乗っている間じゅう忍びない思いでいっぱいだった。

 正直なところ「後ろに乗れと、そう言うてるんか……?」と気付いた時、引かなかったと言えば嘘になる。けれど手首を掴んだ力の強さや、珍しく強情さを覗かせたその目にやられた。

 その感情の内訳は果たして、同情と恋情が何割ずつなのかは分からない。けれど何はともあれ彼は彼なりになりふり構わず、自分に気持ちをぶつけてきてくれているのだと思うと嬉しかった。

 彼の部屋はエアコンを点ける前から涼しくはあったけれども、相変わらず物悲しい雰囲気で薄暗い。同じ部屋が彼の胸の奥、まだ自分が開けることのできていないドアの奥にあるんじゃないかという気がする。

 だから、片山はこの部屋をあまり好きになれない。彼の生活や、大切にしてきたものがここにはあるのだというのは理解しているつもりだけれど、こんなところにいつまでも彼を置いておきたくない。というのが率直な感想だ。

「はっ……あ、うっ……」

 広川は、いつにも増して言葉少なに片山を抱いた。彼は不安に駆られた時や寂しさに倦んだ時、決まってそうして片山に触れる。

「あ、あっ、いいっ、おっき……」

 クッションのへこんだ古いソファの上で、片山は彼に後ろから貫かれながら背中を反らせた。すると広川は、小刻みに腰を震わせながらぎゅっと片山の体を抱き締めて、マーキングでもするように首の付け根に歯を立てる。

「いたっ、あ、あぁ……っ!」

「──片山さん、こっち見て」

 広川は独りよがりな口ぶりで言って、今度は片山の頬に口づけをした。それに導かれるようにして片山も首を横へ傾けると、今度は唇が重なる。

「んっ、んぅ……っ」

 繋がったまま体を翻され、今度は真正面から強く抱かれた。彼の長い腕がすっぽりと片山の体を胸の下に閉じ込める。瘦せぎすだけれど、力仕事で筋張った頑丈そうな腕。ここ数ヶ月で少し太くなった気がする。

 彼と初めてしたのもソファの上だった。思い出すのも恥ずかしいくらいに、とんでもなく卑怯で情けないセックスをしてしまった。というのがお互いの共通認識ではあるがそれだけに、あの時よりも少し逞しくなった広川にそそられる。

「ふっ……あ、ふふっ……ひろくん、かっこいい……」

「……からかわんといてください」

「からかって、なんか……ないよ。……キス、して」

 激しい揺さぶりが、口づけの間だけ少し緩やかになった。普段はこちらが恐縮するほど優しく大人しい彼なので、抱き合っている時くらいは激しくなって欲しいと思う。

「──前に、きみ」

 唇が離れた瞬間に、ふと思い出した。

「一人で、する時も……俺でしかしたことないって、言ってたな」

 片山が薄眼を開けてそう言うと、広川は明らかに動揺して動きを止めた。そんな彼の胸の下で片山は、そっと肘を立てて体を起こす。

「……どんな風なん?俺は、きみのアタマの中で」

 片山が調子に乗ってそう尋ねると、彼は上半身をくまなく真っ赤に茹で上がらせ、目を白黒させて黙り込んだ。しかし一方で片山の体の中に潜り込んでいる彼の一部は、そんな弱った彼の様子とは裏腹に脈打ちながら嵩を増す。

「またおっきくなった。今、なに思い浮かべた?言うてみ?なんなら今──」

「黙って」

 そんな挑発を遮った広川に、片手で口を塞がれた。そしてそのまま勢いよくまた胸の下に組み敷かれ、憤然と眉を寄せる彼に激しく胎内を掻き乱される。

「んんっ!? んぅ、う、ふぁ、あぅっ、あっ、ああっ!」

 体の奥の痺れるほど感じる部分をごつごつ突かれ、嬌声と一緒に唾液が溢れた。それが彼の手のひらを濡らし、自分の顔も濡らして、頭がどうにかなったのかと思うくらい興奮する。

 広川はうわ言のように「ごめんなさい」と掠れた声で発し、片山の口を塞いでいた手を退け代わりに今度はキスで口を塞いだ。

 それに片山も舌で応え、両腕で彼の体を首から抱き寄せる。その瞬間彼は短くうっと呻いて、体の中に彼の放った熱が広がっていく感触を捉えた。

 けれど広川はそれに構わず、まだまだ足りない。とでも言うように片山を激しく抱き続ける。そうして欲しがり続ける彼の体が愛おしくて、片山もまた彼の腰元に両脚でしがみついて求めに応え続けた。

   *   *   *

 目を覚ましたのは昼前、彼がとっくに仕事へ行ってからだった。目の前のローテーブルには「仕事に行ってきます。朝ごはんを用意しておきましたので、ゆっくりしてらしてください。一応、脱衣所に着替えとタオルも置いておきます」という書き置きとサンドイッチが置いてある。

「いててててて……」

 徹夜の収録から休まずの連戦は流石に堪えた。クッションのへたりかけたソファの上でというのもまた腰に優しくない。片山は呻きながら体を起こし、ひとまずシャワーを浴びて彼の用意してくれた着替えに袖を通した。

 下着は自分が寝ている間にコンビニへ買いに行ってくれたらしく、タグが付いたままになっている。Tシャツとパンツは、どうやら彼のとっておきだ。何度目かのデートで彼自身が着ているのを見たことがある。

 細身の彼が履いているパンツは履きこなせる気がしなかったので、下着とTシャツだけ拝借することにして下は着てきた物をまた履いた。それから彼の手作りらしいサンドイッチを有難く頂戴し、自宅に戻ろうかどうしようか悩んで、結局そのまま彼の帰りを待つことにした。その方が彼もきっと嬉しいだろうと思ったのだ。

 あれから何度目かの八月二十日も快晴で、気温もあの日と同じように早朝から三十度を超えていたらしかった。

 そんな日に自分は朝っぱらからセックスに耽り、昼前まで惰眠を貪って過ごし、そしてもうすぐ歳を取り、そんな風にして「あの日」からまた少し遠ざかる。

 気にしないようにしている。という自覚があるのは、ひとえに気になって仕方がないからだ。今日のような日を繰り返して「あの日」から遠ざかっていくことも、埋まらない彼との歳の差も。

 広川は五日後に迫った片山の誕生日を指折り数えるようにして待ち構え、なんなら一ヶ月前の七月二十五日には既に「おめでとうございます」と先走っていたくらいだった。けれど、彼からもらう「おめでとう」はやっぱりなんだか耳触りがよくない。そりゃあ、痛風以外にさしたる病気もなく五体満足で一年過ごせた。というのはある意味おめでたいことだ。というのは分かる。分かるけれども、そういうことじゃない。気持ちの問題だ。

 もっと時間が経って、もっと一緒の時間を過ごせたら、また気持ちは変わってくるのかもしれない。でも今はまだ「おめでとう」より、気休めでも保証なんかなくても「愛してます」とか「ずっとそばにいます」とか、そういう言葉や約束が欲しい。安心させて欲しい。

「……いや、ないやろうな。ないない。ちょっとハードル高いわ」

 普段の広川の必要以上に殊勝な態度──殊勝を通り越して卑屈にすら感じられるその様を思い浮かべ、片山は声に出して自分の期待を打ち消した。

 もう少し自惚れてくれんもんかなあ。と思いながら、そんな「自信のない男」のネタをノートに綴る。板の上から届ける言葉の方が、かえって伝わる気がした。

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