音のない部屋@九州大学芸術工学研究院
8月に城崎国際アートセンターで行うレジデンス創作では、一般見学者のみなさんが研究に参加してくださって初めて完成する音と呼吸の研究室、「参加できるラボ」を色々な専門領域のアーティストたちと一緒に考案する予定です。
どんなラボか言ってしまうとつまらないので計画は秘密ですが、踊りましょうとか声を出しましょうとかアクティブに何かしていただくわけではなく、耳をいつもより使ってもらう、音をいつもより感じてもらうことが実験のポイントになりそう。
というわけで、音響の研究者でありアーティストでもある城一裕さん(九州大学芸術工学研究院の准教授でもあられる)に、「人が音をすごく敏感に感じるにはどうしたらいいか」と質問したところ、九州大学にある「無響室」を一度体験してみてください、と誘ってくださったので行ってきました。
まず、バイノーラルのマイクというのを見せていただきました。それはイヤホンのように両耳に突っ込むマイクで、人の耳の中に飛び込んでくる音を、人の耳が聞いたままの感じで録音してくれるというもの。人の耳は音を集めるために受け皿のような形をしているけれど、その形は人によって違っていて人によって音の集め方も違うそう。
このマイクで撮った音を、ステレオのイヤホンで聴くと、実際にマイクを耳に入れた人が聞いたのと全く同じ方向、距離から、その人の耳の集めた音が聞こえてくるのです。だから、録音した時にマイクを付けた人が後ろから話しかけられた声は、再生してイヤホンで聴くと実際には後ろに誰もいなくてもすぐ背後で誰かから囁かれているような感じで聞こえてきました。このマイクを城さんが耳につけて、このマイクに入ってくる音を出力するイヤホンを私が装着してみると、私のイヤホンからは城さんが聞いている音が聞こえてくる。つまり、私の耳が城さんの耳に乗っ取られる。
次に無響室の体験です。壁が音を吸収してしまって全く何も反響しない部屋、と伺っていたのですが、まずそのビジュアルからびっくり。ドアが1メートルはあろうかという厚みです。
壁面に組み合わさった響きの吸収板は、糸のように細かく空気をたくさん含むガラス繊維でできているそうで、触ると目に見えないほどの繊維が棘のように刺さってとても危険だそう。さらに、私たちが立っている場所はこの壁に囲まれたキューブの上下の真ん中あたりに張られた金属ネットの上で、足の下にも同じふわふわの板の部屋が広がっていて、私たちはちょうどキューブの真ん中に浮かんでいるような状態。ちょっとSFみたいです。
手を叩いても、「パツ…」と不発な音がするだけで、まったく反響しません。大きな声をだしてもなんだか小さく聞こえるし、こっちを向いて喋っている声に比べて、向こうを向いて喋っている声はとても小さく聞こえます。
これもすべて、壁から音が跳ね返ってこないからだそう。普段いかに、音そのものではなくその反響を聞いているのかがよくわかります。全部の音の波がふわふわの物体に吸われて誰かに叫んでも全く届かない感じは、サハラ砂漠に行った時と似ています。
ちょっと2−3分、暗くして一人にしますね、と城さんは部屋を出ていき、私は無響室の中でひとり、真っ暗で響きのない世界に取り残されました。
完全防音なので、自分がじっとしていると、本当に何も音がしません。でも音がないというのは静かというより、真空パックに入ったようで、むしろ耳の中の空気が吸い出されていくような、ふしぎな圧迫感を感じます。
城さん曰く、どんなに静かだと思っても、普段はその空間はなにかが反響しているのだそう。だから、反響が全くない状態を自然に体験することはほとんど無理なのです。(強いて言えば豪雪地帯で大雪の積もった静かな夜なんかは少し近いそう)
城さんが、「この響かない部屋を生かした演劇ってどんなのでしょうね?」と言われました。無響室には数人しか入れないので(狭いし、人がたくさん入るほどその体表面で音を反射して響かせてしまうから)、観客は数人だけです。
でも、西洋では伝統的な演劇って雄弁術と繋がっていて、例えばフランスではアレクサンドランといわれる12行詩を抑揚をつけて大きく歌うように朗唱して、観客を共鳴させるものでした。ヒットラーなど演説の巧みさで知られた歴史上の人物たちも、一種そういった身体にくる響きで観客を熱狂させてきたはずです。
この部屋ではそうやって言葉で他の人間に力ずくの影響を与えることが封じられます。この部屋でいろんな戯曲をいろんな演技法で試してみたら、音の反響つまり音の波が人間の身体と心理に与える影響がわかってくるかもしれませんね。
次に、無響室に2台のスピーカーを向かい合わせに距離を離して設置し、私たちはその間に立って、バイノーラル録音した川のせせらぎを、右耳で録音した音は右のスピーカーから、左耳で録音した音は左のスピーカーから流してもらって聞いていきます。部屋を真っ暗にします。
まるで真っ暗な森の中に本当にいるように、その環境に360度とりかこまれているような感じがしてきました。驚きました!
バイノーラルマイクを使って最高の機材で録音してあるので、それを、全く余計な反響のない部屋で流すと、その時にマイクをつけて川辺にいたその人が聞いたまさにその方向から正確に音が聞こえてきて、それが、本当にその音の発生源が今この室内にあるようなリアルな感覚を与えました。音が反響してしまうと、どこからの音なのか方向性が曖昧になってしまうので、この鮮明な体験には無響室が必要なのだそうです。
城さんは、音だけの映画をつくりたいと言っていました。
私の印象では、映画では視覚情報は2Dであくまで撮影された世界に入り込むことはできないのに対して、この音体験は3Dなので、どちらかと言えばVRゴーグルでイマーシブに周囲の現実とは違う世界を見てまるでその世界がそこにあるように感じる体験の、音バージョンのような気がしました。
森を体験するには本当に森に行って匂いを嗅いだりキノコに触ったりするほうがリアル…かと思いきや、聴覚だけで感じて他を想像で補うことで、もっと奇妙なリアルさがある、非常に面白い体験でした。
私は舞台の仕事でも音に敏感でマニアックなので、音響テクノロジーとアートの関係の新しい可能性にとても興奮するリサーチになりました。
無響室の暗闇の中で、実際にはスピーカーがあるだけなのに、そこに俳優たちがいて聴く人の周囲で話したり物音を立てているように錯覚させる音だけの演劇だってあり得るかもしれません。
貴重な施設を案内してくださった城一裕さんと九州大学に感謝いたします。