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日本語を話す女性に起こること



ちょうどいい話し方が、みつからない。これは私が女の人だからだろうか?

半年前、ゲンロンのプラットフォームで配信チャンネルを始める時、ゲンロン代表の上田洋子さんに、「上田(久美子)さんは話が面白い、女性で話せる人は珍しくて女性配信者が少ないから応援したい」と言われた。

でも、いい語りをできていない気がする。

もしこれが仮に無料配信でも、忙しい時間を割いてどれだけの人が耳を傾けてくれるのかな?と最近思う。
私が早口で滑舌不明瞭なことや、省略が多すぎて音声だけでは文脈を追えなくなることや、配信に慣れている上田洋子さんとそうでない私の対談回を聴いたら一目瞭然なように公のメディアで話す技術が欠如していることが、見心地のいい番組になっていない原因の9割だとは思う。それは意識していけば改善するかもしれないし、それで配信には事足りるかもしれない。

でも上田洋子さんが「女性で話せる人は珍しい」と言ったように、女の人にとって話すということには、もしかしてジェンダーによるなにかの障壁があるんだろうか?

よく一緒に仕事をしている俳優の竹中香子さんが、「日本では女子学生は話を短く切り上げがちかもしれない、自分の時間をとるのに罪悪感があるのかも」と言っていた。
私がこれまで作品の制作発表なんかで男女の出演者たちと登壇して、一人一人が抱負を述べるコーナーになったとき、鷹揚でユーモラスなコメントをして記者たちの笑いをとるのは必ずといっていいほど男性出演者だった。
女性キャストたちはかしこまった様子で一所懸命やりますなどと短く話す人がほとんどで、リラックスして笑いを取った男性陣、つまり公(パブリック)というものとうまくコミュニケートできた男性がその場を「制した」ように見えた。

なんだか、日本語で話す女性の多くは、偉そうに他人の聴く時間をうばってはいけないような、そんな強迫観念を持っているのだろうか?

昨日、配信チャンネルに日本語学者の金水敏さんがゲスト出演してくださって、専門の「役割語」から発展して日本語の中のジェンダーについて話したので、今回はそのことを書きたいと思う。

役割語についてはインターネットにも情報が出ているので詳しくはそれらを見ていただきたいが、日本語の漫画や演劇で、老人なら「わしゃ〜〜じゃ」と話したり、貴族女性なら「わたくしどもは〜〜でございますの」、村上春樹の小説では「やあ、〜〜かい?」などと登場人物が話していながらも現実世界ではそのような話し方は誰もしていない、そんなバーチャルな日本語が「役割語」だ。
役割語は文楽や歌舞伎、江戸時代の大衆向けの貸本などの中で使われていたキャラクターを表す典型的な言葉遣いからの伝統らしい。私たちはなんの気なしにアンパンマンでも宝塚でも役割語を使ってフィクションのワクワク感や言葉のリズムを楽しんでいるのだが、一方で役割語は女性に強いられるステレオタイプな女性らしさとか、家父長制の権威とかを内包していて、問題ぶくみの概念でもあるという。これらに幼いときから日常的に親しむことで内面化されるものが何なのか、というのも金水さんの問いかけだ。
私たちは実生活ではこういったフィクションの役割語は使わないが、金水さんのような有名な教授である男性の話し方やそれに連動した身体と、若い女子学生の話し方や体の緊張感は全然違っていて、それも現実世界の役割語にあたる「態度の既成の枠」に自らを当てはめた発話と言えるのじゃないか。

私は、女性の中では男っぽいと見られるかもしれないが、やっぱり配信でも講演会でも面接でも、公の場となったときに、どうも女の人特有のモードになっていると感じる。
どういう感じかというと、かつて黒電話の時代にお母さんたちが電話に出るとき「はい、上田でございます」なんて高い気取った声で話していた身体に近い力の入り方になっている。
そしてどことなく、ニコニコして愛想良くテンションを上げて、相手に対して一生懸命エネルギーを使っているという誠意を見せる。聴衆の女性たちもこちらの努力を慮ってか、ちょっと私の身体が伝染したように背筋を伸ばして一生懸命ニコニコと聴いてくださる。男性たちには伝染せず背中を丸めたりのけぞったりしてゆったり聴いている印象だ。

金水さんが、男性は一人称の使い分けで社会におけるモードを簡単に切り替えられると話していた。
男性は、「俺」という同輩たちのくつろぎモード、「僕」という学校や家族のモード(母親に従う息子モード)、「私」という公の場のフォーマルモードを、自在に行き来できる。
一方で女性は、かつて「オレ」を使っていた時代もあったらしいが、それは下品だとして奪われてしまい、松下村塾あたりで発祥したインテリ男性たちの「僕」は女性には与えらえず、「私」だけが残された。江戸の町人は男女で話し方に大差はなかったと言われているそうだが、明治以降、良妻賢母教育の中で、女性には女らしい言葉遣いが教育され、かしこまった「私」というモードだけが推奨されてきたのではないかというのが金水さんの話だった。
女性はどんな場でもゆったりくつろがずかしこまっているほうがいいというのが、女性の一人称が「私」しかないという現代の日本語から規定されうる内面なのでは、ということだ。
それとどこまで関係あるかわからないが、私が公の場で「黒電話に出る昔のお母さん」っぽい身体になって、かしこまりモードの表現として少し声を高くしてしまうのは確かだ。(男性は、俺、僕、私のいずれの時も声の高さは変わらないが、女性はフォーマル度で人称が変わらずトーンの高さが変わる気がする)

この黒電話の感じはゲンロンの配信プラットフォームには合わないと感じていたので、そもそも金水敏教授を迎える前日に、どんなふうに話したものかと、私は研究のために金水さんと落合陽一さんの対談配信番組を見たのだった。
落合さんもそうだが男性の論客というのは大抵リラックスして、権威に対してかしこまっているような身体はあまり作らない。シミュレーションのため、番組内の落合陽一さんを自分に置き換えて女の私の身体と声で脳内再生してみると、金水さんに対してめちゃくちゃ失礼な感じがした。まあそれは性差というより私と落合さんのステータス格差のためかもしれないと思い、もっと「偉い」女性知識人が落合さんのようなモードで話すのを想像したがやっぱり「変な人」に思えた。そのような女性からは対談相手の男性も意図的な反発のメッセージを受け取ってしまって、会話がうまくいかないだろうと想像した。
こういう討論の場の男性たちは、知のプロレスを行うための威圧感を発していることも多い。しかし女性論者だと、彼らのようなモードに入ったら、かなり癖の強い人に見えるだろう。落合さんたちがやっていたら魅力的ともみなされる態度も、女性だったら、ちょっとあんな女の人にはなりたくないな、と女性の多くが感じてしまうような不自然さや攻撃性を感じさせる。

日本のジェンダー平等の国際ランキングは昨年は146カ国中の118位、以前からずっと東アジアで圧倒的最下位で、似た順位の国は全て発展途上国だ。イスラム社会のように日常生活で女性の自由が制限されているわけでもないのにこの順位というのは、政治経済部門での女性進出の遅れのせいだという。

どうしてそこに進出できないのか、それは、日本語を話す女性たちの、そのような場での話し方のモードがまだ確立できていないことの影響もありそうだ、と最近感じる。
討論の場とか、政治経済の世界で、女性たちはどんなふうなモードで話し、居ればいのだろう。
女性がちょうどよく話し主張するためのモード。

企業、学術界、政界、男性によって形成されてきた「公」の場で、女性が発言する時に、今は、伝統的な女性らしいかしこまりモードか、女性からも敬遠されがちな「男性化」モードしか、既存のモードを私たちは知らないような気がする。

前者は緊張感のある女性らしい体の動かし方をして声も高めに、謙虚に愛想良く振る舞うことで、周囲との衝突がない。私も失敗できないと感じる時に無意識にとってしまう安全策だが、それでは男性と等しい発言の影響力を持つことは難しいし、配信のような本当に意見を伝えないといけない場では、媚びているような表層的で真実味のない語りに聞こえてしまう。
学術の世界にいる女友達は、そのような女性特有の振る舞いが求められるのは納得しがたいと抵抗するあまり男性のように話そうと力んでしまって、それはそれで周囲からは引かれてしまうし、どう話せばいいか見つけられずにいると言った。

その女友達の話から連想したのだが、日本の政界で上り詰めた女性政治家たちを見て、あんなふうに活躍したいと憧れる女性は私を含めて少ないのではないかと思う。私にとっては、その人たちの話し方や振る舞いを自分もやりたいとかやれるとか感じられないという感覚的な理由が大きい。男性たちによって占められてきた政治の場で発言して位置を占めるために、今はまだ女性たちも男性のような身体を作り男性のように話しているように見える。それが嫌だ、やりたくないと感じるのは、私がフェミニズムに目が開かれていなくて、女性が男の既得権益を奪うことを退けたい男性たちの価値観にとどまっているから、というわけではないと思う。


男性化するわけでもない女性の「公」の話し方を作っていけるのだろうか。

そういえば私は作家のヤマザキマリさんの話し方に惹かれるのだが、私が日本人女性の語りに感じる難しさに陥らず男女によらない人間として話せている感じがするからだ。
それは第一にヤマザキさんの特質があってのことだろうが、彼女が思春期から大人になるまでイタリア語を話して生活してきたことも少し関係しているのだろうか。

私は日本語を商売道具とし、日本語の美しさや多彩な役割語の楽しさの恩恵に預かってここまできたが、日本語で育ち日本語を話す女性としての枷って何だろうと考える最近の日々でもある。
なお、金水さんとの「すき焼き」対談は、金水さんのお人柄ゆえか親戚の集まりのようにリラックスしてしまい、お屠蘇気分も手伝って結局は予習時に落合陽一さんに置き換えた自分と同じぐらいかそれ以上にくだけた態度をとってしまったのだが、そんな対談を気にもせず受け入れてくださった大阪大学名誉教授の懐の深さに感謝したい。
しかしながら配信を見返してみたところ、換気扇を消し忘れたのも手伝って(すき焼き臭がすごすぎた)いつも以上に私が何を言っているかさっぱりわからない番組に仕上がっていた。かなり面白いお話を聞けたのに残念なことこの上ない。

まずは滑舌とわかりやすい論旨など単純にスキル面を改善したのち、日本語に内包されたジェンダー観についても考えていきたいところだ。
金水先生、ありがとうございました。



「すき焼き対談」(youtube)


全編(シラスチャンネル)



※こちらは基本的に無料記事ですが、メンバーシップの皆さんにメールで配信されるためには有料部分をつけなければいけないnoteのシステムの都合で、下記におまけを付けます。
役割語ってまさにこんな感じ、という見本みたいな上田作品の台詞を少し、金水先生に敬意を表して、載せておきます。

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662字

上田久美子(と制作チームProjectumï)の創作活動を支えてくださる皆さまのメセナです。 このn…

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