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ダミアン・ハーストを見てきたぞ

すっかり桜の季節は終わってしまって、ダミアン・ハースト展もあと数日、というところで行ってきました、国立新美術館。
最近web上で『絵画が困難だった時代』について語る人が多く(もちろんダミアン・ハースト展と絡めて)その辺りにいまだに引っ掛かっている私としては、書かずにはいられない思いがあるのです。

あの、動物をホルマリン漬けにしていたダミアン・ハーストが(以下DHと略します)桜、それも絵画、大画面、連作とくれば、そこに何かがあるだろうと思うのは当然です。

実際に会場で見ると、圧倒される何かはある、だがしかし…
その「しかし」の先は何なのか、すぐには言葉にはなりません。
ものすごく強度のある虚無といった人がいますがなるほど!と思いました。
これだけの熱量と労力をこめて、何枚も何枚も桜を描き続ける。
でも桜を描いているんだけど、描いていないというか。
日本人が感じる「もののあはれ」的なものが1mmもないというか。
そういう方向ではないのにものすごく具体的なモチーフを選んで桜を描いちゃっているというか。

例えば日本画で、とても丁寧に描かれた桜を想像してみて下さい。遠景でも近景でもアップの桜でも、誰の作品でも構わないので。
(ざっくり過ぎて日本画の人に怒られそうだけど)
別に油絵でも良いわけですが、まあ一般的に「写実画」という範疇に入るもの。それとこのDHの桜は大きく違いませんか?

あくまで個人的な考察であるということを前提に書きますが…

絵画に系統樹があるとすれば、その中での大きな枝分かれポイントは、絵画が支持体と表面であるという哲学的でもあり、身も蓋もない解釈がなされたところです。

表面に何が描かれていようが、バッサリ。支持体と表面という形式を持つ物体であると。一度そう考えてしまうと、さて次にどう進むべきなのか。
それが絵画の冬の時代であり困難だった時代です。
多くの人は違う形式を求めた時代。いったいどうやってそこから回復するのか。それは長い間の私の課題でもありました。
「現代美術」と呼べるのはそこのポイントを解釈し、意識的に通過しているかどうかだと思っていたし。

今回、24分を超えるドキュメンタリーフォルムを見て良かったと思いました。制作過程が見られただけではなく、インタビューの中でDHは、点描・ポロックのようなドリッピング(実際には地面に向かって垂らすのではなく、立てかけた作品に絵の具を飛ばす)・印象派のように光の反射によって見える別の色彩を足すことによって得られる効果について語っていました。
そして、オリジナリティはない、過去の影響を組み合わせるだけだとも(正確ではないかも)

とにかく、多くの考察が頭の中を巡る展覧会であることは間違いなかったし、2022年の春にDHのこの作品を生で見たことは大きなことだと思いました。きっと後から考察のおかわりが出てくるに違いないでしょう(答えは3日後の女だし 笑)

そうそう、DHのNFTの作品については、いつかまた別に書きたいと思っています。


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