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私の記者歴

私は2020年4月〜2022年3月までの2年間、新聞記者をしていました。
当時のことを振り返りつつ、記者として歩んだ2年間を振り返りたいと思います。
私は、
警察→教育→フリー
の3つを経験しました。
2年間で書いた記事は600本ほど。
ニュースを記事にするストレート記事から読み物と呼ばれる軟ネタまで幅広い記事を書きました。割合でいうと、ストレート8割、軟ネタ2割ですかね…。
新聞に掲載する記事が多いので、ストレート記事が多かったです。

オンライン取材の様子

警察担当

私は入社してから3ヶ月は警察担当をしました。通称・サツ担と呼ばれています。
サツは、日々県警の記者クラブに詰め、各警察署や県警各課からの広報を記事化する作業をしていました。他にも、海上保安庁や空港の有事(不時着やトラブル)なども業務に入っていたので、事件事故につながりそうな部分を上司2人を含めた3人でカバーしていました。
通常であれば、着任した4月に県内の各警察署に出向き、挨拶回りをしていましたが、新型コロナウイルスが大流行し、社会的にも自粛が求められていたので挨拶回りは必要最低限にとどめました。また、コロナで自粛ムード真っ只中だったので、広報も少なく、クラブにいるだけの日々。毎日、刑事訴訟法とかの本を読んで、決まった時間に各警察署などに警電を掛けて業務終了という日が多かったです。
しかし、上司2人は警察担当を経験している方ばかりだったので、どこかに行って取材したり、警察署を回ったりと各々行動していました。
コロナで自粛ムードがあっても新聞社は365日動き続けなければいけない会社なので、局内の持ち回りの仕事をしたり、特集に向けて動いたり、記者はいつも通り仕事をしていました。
私も3ヶ月でコロナ休とることなかったですねー。シフト通りに出て、仕事して、休む日々でした。

3ヶ月いた中で大変だったのが、6・23です。全社挙げての総力戦と言っても過言ではない日だったので、一人一人持ち回りが決められていました。私は朝4時から仕事する役割を受け持つことになりました。
この仕事は、代々警察担当の新人が担当することになっていました。真っ暗な中現地に行き、取材し、明るくなってきたら現場に人々に話を聞き、記事を送って、居合わせた人と一緒に会社に戻る。
この取材で1日が終わればよかったのですが、私の場合は警察の当番も兼任していたので、午後9時までの勤務が待ち構えていました。(前日も夜勤で遅かったので余計に長く感じました…)

長い長い1日の勤務が終わった1週間後の6月29日に当時の部長に異動を言い渡されます。
6月末をもって警察担当から支社に移動になる人の後任で教育に異動になります」(記憶ベースなので言っていたことは違うかも…)
急いで引き継ぎ書を作って、クラブの机を整理し、後任の同期に引き継ぎし、必要最低限の挨拶回りをする。
目まぐるしい2日間を経て7月1日に異動していきました。(異動日当日まで引き継ぎしてました)

教育

教育は2020年7月〜2021年11月まで担当しました。主に教育行政を担当しながら学校現場を回っていきました。
ここで書いた記事が1番幅が広かったです。
教育委員会や議会の取材、文部科学省の調査結果発表(学力テストとか)、高校・大学入試など、情報の鮮度が求められるストレート記事と、
学校現場の面白い取り組みや人物にフォーカスした軟ネタ系記事を書きました。
常に文部科学省の発表文や調査を年代ごとに追ったり、県の政策と教育委員会の政策を絡めてみたり、教育行政にどっぷり浸かった時期でした。
また、小中高校、大学、専門など児童・生徒・学生の活躍を生で追って記事にした期間でもありました。
その間に学生の就活に関する記事を断続的に書いて掲載したり、特別支援学級に関する記事を書いたりしました。
教育時代に仕事で勉強したこと、聞いたことが今も知識として残り、人と話をするときの話題作りにも生かされている気がします。

大変だったのは、
大学がリリースする研究の記事を書くときです。
研究成果や研究方法などが書かれたリリースを見て読み込みながら、研究者に電話ないしメールで質問し、理解した上で噛み砕いて記事にする。
最初は一連の作業が全くできず、怒られまくりました。
研究者でもないのに、リリースに関する学問分野のエキスパートに一時的になり、読者にもわかりやすい言葉に変換して記事に落とし込むことが上手くできませんでした。何度も書いているうちにコツを掴み、自分の中での研究記事の定型が出来上がってからは怒られることは少なくなりましたが、
いまだに苦手な分野の一つです。

一方で楽しかったのは、2021年夏に高校生を追って県外出張に行ったときです。
文化系高校生の祭典である「全国高校総合文化祭」に出場する県勢の活躍を追いかけるために、単身和歌山に出張に行きました。
県勢の出場スケジュールを追いながら取材し、記事を書いて出稿する7日間でしたが、1番充実していた気がします。
仕事に追われながらも、自分のペースで休憩して休むことがこんなにも楽なんだ!
ってことを初めて実感しました。

出張最終日に会いにいった貴志駅のねこ駅長「にたま」

一方で、仕事へのプレッシャーは大きかったです。
一人でカメラマンをやり、記事を書き、出稿する作業は一つでも失敗すると記事を載せてくれないので、毎日必死にいい写真を撮って、話を聞いてまとめることに精一杯でした。また、出稿スケジュールや記事の展開を決めて報告しないといけなかったので、迷っても決めなきゃいけない環境に置かれていました💦
特に、県勢が強い分野というのがある程度決まっていたので、そこに対する写真のクオリティーや記事の速報性が強く求められていました。
他にも、翌日の紙面展開が決まった頃に予想していないところで大きい賞を取ったという連絡をもらい、本社に電話して、「1面ものの記事があります」と申告するのが怖かった日もありました。(その前に、電話で「他に出す記事ないよね」と確認されていただけに…)

フリー

フリーには2021年11月〜2022年3月までの約5ヶ月いました。
フリーとは県外でいう「遊軍」と呼ばれる記者です。特定の取材領域を持たずに、各々取材したいことを取材して記事にする記者たちが集まります。
私の会社ではフリーでも担当持ちのフリーと担当がない正真正銘のフリーがいました。私が配属されたのは後者でした。
なぜ?ネタ探しもあまりできないのに…
と思ってしまいました。
通常、入社歴の浅い若手はネタ探しに苦労するのでフリーに配属されても担当持ちのフリーになることが多いのです。
担当持ちでない分できることをしようと考えてやったのが、
地元のアーティストを取材して書いた記事は大きく扱ってもらいました。

ところが、
年が明けてからネタが尽き、書くこともなくなり、
仕事することへの意味を見出せなくなってしまいました。
フリーはネタを探して記事にするのが仕事なので、ネタ探しに苦しめられました…。
結局、2月から休職し、部署を異動していったので、
納得いく幕引きができずに2年間の記者生活を終えることになりました。

まとめ

文章を書いていて、2年振り返ると間の教育の思い出が圧倒的に多いことに気づきました。
それだけ濃い時間を過ごしていたんだなぁと再認識したくらいに。
最後は休職したまま記者生活を終えたので、「元新聞記者」というのが不思議な気持ちですが、少しずつ受け入れていこうと思います。

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