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「負ける」を選んだ厚労大臣

議員秘書になって良かったと思うことと、もう二度と嫌だと思うことがあります。嫌な方は、まともな休みが取れなかったとか、信頼していた秘書の裏切りにあったとか、思い出すといろいろありますが、嫌な思い出は、忘れやすいものです。これに比べると良かったと思うことはたくさんあります。中でも、私が就いた議員から聞いた話で印象深く記憶に残っていることがあります。今日は、これが政治家の仕事だと感動した、日本の政治史に残る政治家の決断の話を書こうと思います。

タブーを顧みない小泉純一郎政権

その当時は、泣く子も黙る小泉純一郎政権でした。「自民党をぶっ壊す」といって首相の座に就いた小泉氏は、その人気を背景に、郵政民営化など、これまで政治課題としてタブーとされてきたことを現実化させて改革を進める力には圧倒される勢いがありました。

その小泉政権で起きた「タブー」打破のひとつに「控訴断念」という前代未聞の決断があります。

1931年、「らい予防法(旧法)」が成立し、全てのハンセン病患者は国が指定する隔離施設に入所を余儀なくされました。ハンセン病は皮膚がただれ形状が変化する感染症で、当時の医学では隔離もやむを得なかったのかもしれません。しかし、感染力がごく弱いものであることや、プロミンという特効薬が発明されて不治の病ではなくなっていた後も、国はこの法律を放置することで、患者を社会から隔離し続けていました。

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「あん」という映画をご覧になった方も多いと思います。ハンセン病で施設に入っている女性を演じたのが樹木希林さんでした。病に襲われた人が社会から隔絶された人生を送らざるを得なかったのはこの「らい予防法」という社会から人を切り離す法律があったからです。

ハンセン病は1943年にアメリカで特効薬が開発され、既に治る病と判明していました。しかし、日本では隔離する法律を放置していたことで、1989年(平成元年)に至っても約6700人が隔離されたままでした。この事実は報道されることもなく、法律家にも知られていなかったといいます。そのハンセン病療養所入所者が、国を相手に訴えをおこしました。それがハンセン病国家賠償訴訟です。行政訴訟において原告が勝訴するケースは極めてまれ。国を相手に訴えるなど、狂気の沙汰といわれた時代です。その時代に、国家賠償請求をすべきと考えた弁護士らの活動で、当初13人だった原告が589人まで増え、この問題意識が全国に広がっていきました。

全国で起こされていた裁判のうち、熊本地裁の一審判決では「国の不作為」、つまり国がらい予防法を放置したことによる賠償が認められる判決となり、原告は勝利を勝ち取りました。大切なのは、この後。どうしたら国が控訴を断念し裁判を終わらせることができるかということでした。控訴されなければ、判決は確定します。残された期間はわずか2週間。この場面で、ある政治家の力が動きました。


坂口力

心の嵐を鎮める (5)

当時、厚生労働大臣は、公明党の坂口力氏でした。医師出身の坂口大臣であっても、大臣就任当時はハンセン病をよく知らなかったそうです。この訴訟で医学論文等の専門文献を読み進めるうちに「なぜこれは隔離されなければならないのか」という疑問に行き当たりました。調べると、1958年に日本で開催された「国際らい学会」で日本の隔離政策を改めるよう勧告があったものの、この勧告そのものが翻訳すらされた形跡がなかったそうです。
坂口大臣は「医師として、国会議員として、この問題を知らなかった自分にも責任があると思いました」と当時を振り返ります。

この後、坂口大臣は、何人かの大物政治家の志を巻き込みながら、静かに動いていきます。


野中広務

心の嵐を鎮める (6)

控訴の期限が迫る中、小泉総理は坂口大臣の考えを聞き置いたうえで、控訴決定の段取りをとっていました。厚労省内は、控訴すべしの一点張りです。

この真っ只中で坂口大臣に「会ってほしい人がいる」と言ってきたのは、自民党の重鎮、野中広務氏でした。5月14日、野中氏はハンセン病の当事者である原告団を大臣室に連れ、当事者の話を直接聞かせる機会をつくりました。

療養所での生活、家族と切り離され差別された数十年、そして、療養所内で結婚した後、妊娠8か月目で強制堕胎された話。

坂口大臣のメモをとっていた手が震え、赤いペンの動きが止まりました。

「もうメモができんようになった。目が潤んで」


坂口大臣が、控訴断念を心に決めた瞬間でした。
でも、厚労省内は大反対です。「地裁ごときの判断に国の行方を決められるものか」という霞ヶ関のプライド。坂口大臣にとって、ここで厚労省の役人組織を敵に回すということは、今後は大臣としてのまともな仕事ができなくなるということです。でも、「控訴断念」でこの悲しみを終わらせたいと決めた志は揺るぎませんでした。

心の嵐を鎮める (7)

控訴期限前日、坂口大臣は福田康夫官房長官に呼ばれ、首相官邸で大臣としての意思の確認をうけました。熊本地裁判決について、控訴すべきか否か。大臣の意思は変わりませんでした。

控訴断念すべし。

しかし、官邸内では法務省内とも「控訴すべき」で合意ができていたといいます。


この日の午後、坂口大臣は小泉首相と会い、意思を伝えることになっていました。坂口大臣は、首相に会う前に辞表を内ポケットに忍ばせました。

小泉純一郎

心の嵐を鎮める (8)

小泉首相は、法務大臣と坂口大臣を前にこう言いました。

「熟慮の結果、控訴せずでいきたい」

驚いたのは、坂口大臣でした。「控訴せず」は閣議決定され、熊本地裁の判決は確定となりました。裁判が、原告の主張を認めた判決で終わったのです。

この時、判断の決め手となった小泉首相の心を動かした人物がもう一人いたのだと、私は後になって聞きました。控訴か控訴断念かの瀬戸際の時、坂口大臣が辞表を懐に忍ばせ総理に会いに行くその直前に、小泉首相にハンセン病の原告団を引き合わせていた人物がいたそうです。それが野中広務氏だったのだ、と。

そう言われると、私が議員から聞いた話と符合する点がいくつもでてきて、私は納得したのです。

議員はいつもこう言っていました。

「鈴鹿さん。私には、尊敬できる政治家が4人います。この人たちと仕事ををすると、自分も弱い人のために頑張ろうと思えるんです。この4人の政治家がいる限り、私は政治家を続けていこうと思えるんですよ」

その中のひとりが、野中広務氏であり、坂口力氏でした。

後日談


一年か二年後だったでしょうか。久しぶりに会った記者から、そもそも野中広務氏にハンセン病原告団を引き合わせたキーパーソンが誰だったのか、その名前を聞いて、私は腰が抜けそうになりました。

そういえば、そうか!!

それは、野党のひとりの政治家でした。

心の嵐を鎮める (10)


政治家にしかできない仕事。誰も見ていなくても、今、自分でなければできないことを、志を以て貫く。これは、清濁併せ呑むといわれる政治の世界で、それでも志を貫く政治家を垣間見た出来事。強者の力は、こうして使うのだ、と手本を見せられたようでした。

数多のスキャンダルに取りざたされる人物も、人の目に触れないところで、政治家たる志を貫くことがあるという、そんな現場のできごとでした。

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