見出し画像

「中立」という名の幻想-山田遼志『Philip』MV(2020)

※2023.08.29 前回記事への反応部分を一部修正

要約

 本記事は、millennium paradeの『Philip』のミュージック・ビデオ(2020,山田遼志監督[以下、敬称略])の表現内容(signifié)についての一つの解釈である。
 シェイクスピアやマキァヴェッリのフィルターを通じて、主人公のドーベルマンStanが次世代のPhilipのために、希望に満ちた世界を作り上げたという解釈が成り立たないことを示す。また、その過程で、もう一人の主人公とも言うべきJoshは何者なのかという大きな謎を検討することで、「中立」概念の危うさを論じる。

0.はじめに

前回の『Waiter』(2013)に引き続いて、山田遼志の作品について記したいと思う。
 まずは、「0.はじめに」において、『Philip』がMVという表現手段であること、しかも、millennium paradeという開放的なプロジェクトの一環としての作品であることの意味と、本記事を書く上での筆者の問題意識という作品の外在的な事情を記す。
 本記事自体の分量が長くなってしまった(約1万字)ので、タイパを気にする現代人は「0.はじめに」を飛ばして、作品の内容について触れる1章から読むことを薦める。

(1)批評の観点:millennium paradeでのMV

 そもそも、ミュージック・ビデオは、音楽作品の販売促進のために作成される性格の表現媒体である。したがって、音楽作品が「主」であるとすれば、MVは「従」であり、せいぜい表現手法に裁量があるにとどまることが、相対的には多いと思われる。
 これに対して、『Philip』では、山田の個性の表現、すなわち、音楽作品とMVの間に主従関係はなく、表現手法(signifiant)のみならず、表現内容(signifié)に、山田の個性を出すことが幅広く許容されていると思われる。

millennium paradeの楽曲が、僕の作風と合いそうということで、どうせなら、企画から大事に作りたいよねって話になって、僕から5、6案の企画を出しました。millennium paradeが選んだのが、この企画「Philip」。楽曲の方は歌詞とラップを中野裕太くんが担当してるんだけど、相談しながら、こちらが投げた企画や映像をみて、歌詞の世界を”フィリップへの手紙”にしようって決めていったり、millennium paradeから戻ってくる歌詞や楽曲を聞いて、こっちからまた投げ返す。そんな風に自然発生的に進んでいきました。

山田遼志のインタビュー
https://newreel.jp/feature/5772

 そもそも、millennium parade自体が、メンバーが入れ替わる開放性を持った集団であり、主催者である常田大希との信頼関係の下、裁量が幅広く与えられているということなのだと思われる。

そう。いろんなところでいろんな仕事してるけど、やっぱ上がってくるものとか見てると、なかなか任せられる人っていないんですよ。でも、遼志さんに限っては、お尻を叩きまくるだけでいい(笑)。
(中略)
本当に信頼できるから、アーティストとして。ストイックだし、追い込んだ分だけさらに素晴らしいものが上がってくるんで(笑)。

常田大希インタビュー
https://natalie.mu/music/pp/millenniumparade/page/4

 だからこそ、MVとしての『Philip』、映像部分を「主」として語ることに意義があると言えよう。
 他方で、複数人が関与しており、それぞれの裁量を認めるというmillennium paradeのスタイルを貫けば、複数人同士の方向性が一致していない部分に鋭い緊張関係を孕む。曲、歌詞、MVの緊張関係こそがmillennium paradeの魅力ということなのだと思われる。
 したがって、『Philip』においては、山田が作成した映像部分と中野裕太が作成した歌詞部分が一致していない部分もあり得るわけである。筆者は、後に述べるように、映像を解釈する上で、歌詞に引きずられすぎない点が重要となると考えている。以上の認識を前提に、論じることとなる。

(2)筆者の問題意識とスタンス

 また、先日『Waiter』(2013)を批評したところ、ありがたいことに、ご本人が記事に言及してくれた。しかし、多少の人の目に留まったとはいえ、読者からの前回の記事への言語化された反応は特になかった。
 山田作品のアニメはセリフがないことが多く、解釈が難しいということもあるだろう。他方で、アニメのコミュニティ全体が社会と離れたクローズドな空間となっていないだろうか。すなわち、アニメを好む人々の側が、作品をモノとして刹那的に消費することで終わっており、需要を拡大し、将来の表現者を増やす等の再生産の長期のサイクルが成り立っていないのではないか。
批評があったとしても、表現者が、社会の現実をどのように表現するのかという表現内容(signifié)に向き合えていないのではないか。そのことによって、表現者にもフィードバックが行かず、表現者の成長も妨げられているのではないか。
 サブカルチャーとはそういうものであると言えばそれまでの話であるが、そのサブカルチャーを消費する部分社会は「徒党」(前回の記事参照)に過ぎないのであって、徒党はいずれ破滅する運命にある。

 以下の批評の内容自体は、あくまで私の一つの牽強付会の解釈であって、絶対的に正しいとは思っていない。しかし、映像作品を解釈して言語化するこの試みは、クローズドなものをオープンにする公共的な意味が多少なりともあると信じて行うものである。
 なお、筆者は、作者が作品を創造したことへのリスペクトを有しているものの、作品の発表後には作品は作者の手を離れており、作者側の設定も一つの解釈でしかないという(本来なら当たり前の)スタンスを取っていることも銘記しておく。

1. 作品の構造と内容

 まずは、本作品の全体構造と、内容をストーリーに沿って見ていく。
当然のことながら、ネタバレになるので、先に作品を見てほしい。

 『Philip』は、わずか3分48秒(クレジットを除けば、約3分25秒)という非常に短い時間の中で、一つの悲劇を描ききった映像作品である。

 全体は三幕構成でできており、幕の前後にコーラス(サビ)が流れる形となっている。主人公のStanは曲のコーラス部分において、大きな行動を起こし、場面が転換していくという構造となっている。

(0)イントロ

 イントロは、この物語で重要な役割を果たす登場人物と、作品を通じて視聴者が考えるべき謎が描かれているパートである。

 まず、誰かが銃を突きつけている。そして、突きつけられているのは、どうやら主人公のドーベルマン、Stanである。さらに、どうやらStanは、少し前の時間軸において誰かに手紙を書いている。視聴者は、Stanに待ち受ける不吉な運命を強烈に意識せざるを得ない。

また、もう一人、忘れてはいけない重要人物が描かれる。横から顔を出す、トレンチコートを着た犬(Josh)である。

このイントロ段階では、2つの謎がある。Stanに銃を突きつけているのは誰なのか。そして、Joshは何者なのか。

当然、この段階では、答えは明かされない。この2つの謎は、山田から視聴者への問いかけであり、作品を通じて考えることが求められているからである。

(1)第一幕:陽と陰

 第一幕では、Stanが生きる世界のとある都市と、人間の「陽」と「陰」の対比が描かれる。
Stanは車に乗って世界を眺める。ここは、表面的には、中国語風の(「倶楽部味麗羽」などの遊び心のある)看板や、張り巡らされた電線という風に、どこかで見たことのあるような都市の繁華街である。昼間ではあるが、歌い、踊り、「自由」を得ている庶民が存在する。この社会は、どこにでもありそうな明るく、自由な社会なのだろうか。

ところが、すぐに、「陽」の部分だけではないことが分かる。闇の組織が子犬に人間のペット(愛玩犬)の象徴である「首輪」をつけるシーンが描かれる。一部の犬は身体それ自体が商品なのである。

そう、この繁華街は、高度な信用に基づくビジネスを基盤とする都市ではなく、酒や性といった人間の欲望を満たし、「力」が大きな役割を果たすタイプの都市なのである。
他方、都市の周縁部には、どの都市にもある、開発から取り残された古く貧しい湾岸地域が存在する。水の上は生活環境としては悪いはずである。それでも、そこで生きる庶民は、希望を失うといよりは、たくましく生きている。
この点は、『Hunter』で山田が描く社会の庶民が疲れ切っている様と、比較すると一目瞭然である。

さて、Stan率いるSPWの襲撃部隊は、The Dogsの拠点へ到着する。The Dogsは、「GET RID OF RING」の標語を掲げ、人間のペットという現状の打破を唱える組織である。Donのポスターが複数貼られているところを見ると、労働者を代表する政党や組合といった組織なのではないか。
到着したStanたちは、反撃を受けながらも相手を次々と倒す。ここで、例のトレンチコートのJoshにも反撃されるが、Joshは窓から逃げる。
とうとう、ボスであるDonを追い詰め、頭に銃口を突きつけるStan。
Donは穏やかな表情を浮かべ、Stanは逡巡したのかとどめを刺さない。しかし、横からStanの弟分でガサツ、粗暴な性格のBenがとどめを刺す。
SPWは、拠点の奥の治療室へ。ここにいる犬の多くは、首に包帯を巻いていることから、元々は首輪をしており、疾患を負っていることが分かる。彼らをSPWはどこかに戦利品のように連れて行く。
ところが、ここで予想外の出来事が起こる。歌のコーラス部分が流れ、Stanは目を回してしまう。Donの娘で幼馴染のShalaと再会してしまったのである。

(2)第二幕:変化

 第二幕では、The dogsの壊滅とShalaとの出会いによる「変化」が描かれる。
 Stanは、幼馴染のShalaを自宅で保護する。当然、Shalaは、父の敵であるStanに対して反発するものの、Stanは寄り添う。その後の第二幕を通して徐々に2人は結ばれていき、Shalaは妊娠する。StanとShalaには、かりそめの平穏が訪れる。
 一方、The DogsのDonが死亡したニュースは、SPWとの対立構造の図が記載されるなど、新聞でかなり詳細に報じられている。しかし、大衆は新聞は読んでいてもアクションを起こすわけではない。結局、大衆にとっては、The Dogsという党派、そしてそもそも政治は遠い存在であったのである。
 また、よく見ると娘のShalaの行方不明の事実についても記事がある。
StanがShalaを匿っている事実は、兄弟分のBenと、トレンチコートのJosh等ごく僅かしか知らないのである。

 ところが、おしゃべりのRayに見つかってしまい、RayがボスであるEagleに報告してしまう。StanとShalaのかりそめの平穏は、終わりを迎えることとなる。
電話で呼び出されるStan。Stanは、弁解するため、SPWの本部へ。ボスと面会するということで、律儀にBenに拳銃を預けようとするStan。しかし、Benは受け取らない。
 再び、コーラスが流れる。ボスとの対面である。すべてを知ったボスEagleは、叱責し、Shalaを殺すようにと拳銃を渡す。
受け入れられないStanは、とっさに側近2名を撃ち殺す。Don とは異なり、命乞いをするEagle。しかし、今回Stanはためらうことなく撃ち殺すのである。
鬼となったStan。ボスを撃たれたSPWの部下たちと壮絶な銃撃戦となる。しかし、守る者のいるStanは強い。次々に部下を撃つが、最後に弟分のOscarが襲いかかってくる。第一幕で車の運転をしていた弟分である。必死にStanの左手に噛みつき、ダメージを与えるOscar。しかし、Stanの方が一枚上手である。振りほどいて、逆にOscarの腕を噛みちぎる。
満身創痍となったStanだが、SPWの本部からの脱出に成功する。

(3)第三幕:次世代への希望?

 第三幕まで来ると、いくつかの謎が解けることとなる。

 第二幕で永年仕えてきたEagleとSPWに反旗を翻したStan。その今までの生き方の象徴でもある首輪は、もはや不要である。
Stanは、子供の頃のShalaとの日々を思い出す。首輪をするStanとそうでないShalaが、分け隔てなく過ごせていた日々。父親によって、Shalaと引き離される前の日々である。
首輪を捨てたことで、Stanはついに理想の日々に戻れた。これからは、家でShalaたちと平和に過ごすことができる。死を覚悟して、息子Philipのために書いたこの手紙は、無用だった!

と思ったのも束の間、ここで例のコーラスが流れ、場面は暗転する。
背後から銃撃されるStan。最後の力を振り絞って、Shalaを守ろうと扉を背にするStan 。
撃ったのは……兄弟分のBenであった。ここで初めの謎が解けた。Stanの希望を打ち砕いたのは、SPWで共に多くの修羅場をかいくぐってきたBenである。「親」Eagleを殺した「子」Stanには、必ず報復が行われるのが、ヤクザの鉄則なのである。
BenがStanにとどめを刺そうとしたちょうどその時、横からトレンチコートのJoshが現れ、Benを撃ち殺す。懸命にJoshは呼びかけるが、主人公Stanも息を引き取ってしまう。

映像の最後には、お腹の大きくなったShalaが映り、映像は終わりを迎える。

2.シェイクスピアという補助線

 では、山田は表現者として、『Philip』で何を描き、見る者に何を伝えているのだろうか。
 参考までに、ある批評を見てみると、次世代や未来に繋がる希望を描いた物語といった解釈をしている。

millennium parade《Philip》(2020)の結末が未来を予感させるものになっている

塚田優「悪夢的寓話からの脱出——山田遼志のアニメーションについて」
http://tampen.jp/article/560

 しかし、本記事の結論を先取りして言うと、MVの(少なくとも)映像部分については、このような希望の物語として解釈すべきではない。そうではなく、山田は『Philip』において現代社会を写実的に描いた結果、救いようのない物語となっていると解釈すべきである。その結果、例えば、millennium paradeの本人たちの意図や認識を超えて、現代社会への強いメッセージと批判を行っている作品となっていると捉え得る。

 このような結論に至るまでの、思考の枠組みとして、誰もが知るシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』(以下、『RJ』)という一つの補助線を引いてみよう。『Philip』は、2つの対立する勢力の「息子」と「娘」が、愛し合って起こる悲劇であるから、『RJ』の系譜に連なることは間違いなく、補助線として妥当であろう。

両者には、当然ストーリーの重要部分に大きな差異がある。

重要だと思われる部分は、
(1)党派対立の解決方法の差異と、(2)党派対立から距離を置く第三者の性質の差異である。前者は、Stanとかかわり、後者は、Joshとかかわる。

(1)党派対立の解決方法:暴力/言葉

 『Philip』では、結局、戦闘力の高いStanによって、2つの勢力は、壊滅したかのように描かれる。つまり、党派対立の解決方法として、相手の党派を、完膚なきまでに「暴力」で抹殺するというやり方がある。
 これに対して、『RJ』では、中世のベローナを舞台に、ロミオのモンタギュー家(皇帝派)とキャピュレット家(教皇派)という不倶戴天であった2つの勢力が、ロミオとジュリエットの死をきっかけに、ロレンス神父の「言葉」(仲立ち)によって心動かされて最後に和解する。

両者の差異を、明確に捉えていたのは、シェイクスピアも影響されたマキァヴェッリである。マキアヴェッリは、自身の暮らす中世フィレンツェを、血で血を洗う党派争いが繰り返される失敗の歴史として記した(『フィレンツェ史』*1)。一方で、「政治」(及びその発展型である法)が成立した古代ローマの歴史を成功例として捉えた(『ディスコルシ』*2)。すなわち、イタリア半島の小都市ローマは、貴族と平民の分断という所与の事実の中で、分断を包括する仕組みとしての政治を成立させたことで、やがて周辺の都市国家、半島外の活力を取り込み、覇権を握ったのである。

以上の観点から、社会の断絶というのは、解消できない所与のものである。したがって、暴力によって相手を殲滅したとしても、いずれ残った人間が再び分裂して党派を形成して、抗争が繰り返され、「政治」が成立しないのである。これに対して、相手を暴力によって殲滅するのではなく、対話(言論による妥協)によって、対立党派を包含すれば、「政治」が成立するのである。暴力と言葉という解決方法の違いこそが、政治の「成立」「不成立」の分水嶺となる、というのが、マキァヴェッリの見立てである*3。

そもそも、以上のような観点で考えると、『Philip』は、「暴力」によって解決が図られる物語であり、前者の「政治」は成立しない結末を迎えると解すべきであろう。実は、この点で、山田の『Waiter』(2013)(過去の記事参照)との共通性も見出すことができる。

*1  マキァヴェッリ(齋藤寛海訳)『フィレンツェ史(上)・(下)』岩波文庫(2012)
*2 マキァヴェッリ(永井三明訳)『ディスコルシー「ローマ史」論』ちくま学芸文庫(2011)
*3 村木 数鷹「マキァヴェッリの歴史叙述 : 『フィレンツェ史』における対立の克服を巡る言葉と暴力」国家学会雑誌132巻9・10号  (2019)

(2)第三者の性質:中立?

 また、第三者の性質を分析する概念として「中立」を考えてみたい。

 そもそも、日本語の「中立」の使い方としては、①紛争当事者のどちらにも加担しない「距離」を置く「中立」(例:「戦時中立」)と、②右と左の意見の中間的な立場を採用するという「中立」(例:「中立意見」)の2種類があるとされる*4。

*4 加藤周一『私にとっての20世紀』238頁、岩波書店(2009)

 「中立」とPublicは、親和的な部分がある一方で、相容れない部分がある点に注意が必要である。

 例えば、『RJ』では、神のagent(代理人)であって、どちらの勢力でもないロレンス神父(①距離を置く「中立」)が2人を見守り結びつける役である。神父は、ロミオとジュリエットの結婚式を密かに行い、また、結ばれるための知恵を授ける。結果として二人は、死に至るものの、死後の世界でも連帯し続けている。そして、両家を和解させ、「政治」を成立させるのは、神父の「言葉」による説得の結果である。つまり神父は、ここでは「Public」であり、その介入によって集団の解体と、個人のための連帯が実現するのである。

 他方、『Philip』で神父に代わって重要な役割を果たすのは、トレンチコートのJoshである。Joshは、オープニングでも、エンディングもわざわざ登場するほどに重要なのである。Joshは、2人の平穏な生活を見守っており、Joshが駆けつけなければ、Benに母と子もStanと同様に殺されていたかもしれない点で重要な役割を果たす。

 では、Joshは何者なのか?この謎を解くことは、山田が描きたかった内容を確定する上で、不可欠である。

 しかし、Joshについての情報は非常に少ない。公式(?)の人物相関図では、The Dogsには分類されず、「中立?」という文字情報が付記されている。謎は大いに深まる。

 Joshの特徴は、トレンチコートを着ていることである。トレンチコート自体は、ルパン三世における銭形警部が想起されるように、比較的高位の警察官の象徴である。つまり、Joshは、逮捕状の発布を請求できる司法警察員と考えるのが、穏当な解釈であろう。公共のagentとして「中立」と言えなくもない。

 ところが、Joshは、第一幕で、The Dogsのアジトにいる。中立な存在ではなく、The Dogsの一味であると考えるのが素直である。その後も、The Dogsの一味として、ボスの娘であるShalaを見守り続けていたというストーリーも自然な流れではある。
 しかし、主張に一長一短のある片方の党派であるThe Dogsの方に肩入れをしているのであって、公務員の中立性(参照:憲法15条2項)に反してしまっている。つまり、この世界では、Publicは、「距離」を置く中立(①)を保てず、個別の党派と癒着してしまっているのである。その点に疑義があるからこその人物相関図の末尾の「?」の文字ということなのであろうか。

3.待ち受ける世界

 では、山田は何を伝えたかったのか。このMVのエンディング後の世界、つまり、これから生まれてくるPhilipを待ち受ける世界は、どのような世界なのだろうか。

(1)所与としての分断

 そもそも、山田が描くこの世界は、どのような世界なのか。

一方のSPWの主張は、人間に従属する愛玩犬が偉いという価値観であり、血統主義と結びついている。他方、The Dogsの主張は、首輪を取って、人間から独立しようという主張である。

 ここで重要なのは、そもそも、犬というのは、人間に従属したことでオオカミから犬へと分化したのであって、人間に従属すること自体が犬本来のあり方であり、アイデンティティ(犬が他ならぬ犬であること)だという点である。だからこそ、The Dogsは、犬の民衆Pariyasの支持を得られていないのである。

 また、この党派対立をする犬の世界の外部には、(描かれていないとはいえ)人間の存在、世界があるということも非常に重要である。

 その証拠に、SPWの首領は、チワワという小さくて力のない犬種なのである。純血の中でも、力が強そうなドーベルマンやブルドッグがボスなのではなく、人間に人気かどうかが、序列を決めるのである。

 結局、人間という所与の前提がある以上、犬の世界の断絶、党派対立は、なくなるということはない。
(なお、1:35頃の新聞内には、SPW以外にも、The Dogsと対抗する勢力がいることが示唆される。)

 以上のように、山田のMVは、所与としての分断を前提に、暴力による対立党派の殲滅とPublic「公」と「私」の融解が描かれている。したがって、2つの悪の勢力が滅んで、幸せな世界が作り出されるという中野の歌詞に引きずられたポジティブな方向性は、ナイーブな解釈であると言わざるを得ない。

世界がすっかりキレイになった。
行けよ、フィリップ。君の好きなように。
全部大丈夫さ。

Philipの歌詞より

なにか思い悩む人に、「大丈夫だよ」と語りかけるような歌にしたかった。押し付けがましく言うのではなく、「さんざん雨が降ったね。きれいに洗い流されたね。」みたいなスタンスでそういう人のそばにいること、そうやって会話することが、今の自分にはしっくりきたんです。

中野裕太インタビュー
https://natalie.mu/music/pp/millenniumparade/page/2

 本記事の結論は、Philipを待ち受ける世界は、救いようのない世界であるということである。

(2)分岐点

 では、StanとJosh、そしてこの世界の分岐点は何だったのか。処方箋を考える上で重要となる。

①Stan
 まず、確認すべきは、Stanは、名前からして、そもそも negativeな存在であるということである。
 Stanという名前で、真っ先に想起されるのは、そのままエミネムの楽曲『Stan』(2000)である。(2001年のグラミー賞でのエルトン・ジョンとの共演verも大変話題になった)
 エミネムの『Stan』もmillennium paradeの『Philip』と同様に、形式的には、主人公からの手紙を内容とする楽曲である。また、内容面でも、主人公には、妊娠中の彼女がいるにもかかわらず、主人公が暴走して突っ走っていく悲劇であるという共通点がある。この『Philip』は、エミネムへのアンサーソングであると思われる*5。
 そうであれば、主人公の暴走の動機の面で差はあるとはいえ、Stanという名前が付けられた意味合いがnegativeであることには変わりはない。

 そして、実質的な行動を見ても、Stanはnegativeな存在である。寡黙といえば聞こえは良いが、政治を成り立たせるために必要不可欠なコミュニケーションをとらないし、その資質に欠ける。最も重大な場面であるSPWの本拠に向かう際にも、Shalaにも相談を行わないし、息子へも手紙という一方通行のコミュニケーション手段を用いるのみである。

 また、弟分を含めて相手方を全て瞬時に殺そうとしている。言葉によって、立場を異にする者を説得して連帯しようとする性質を全く欠いているのである。
 確かにStanは、第一幕で、確かにDonにトドメを刺していないし、躊躇しているように見える。また、第二幕でも、初めは、言葉による交渉を行うつもりであったようにも見えなくはない。しかし、第一幕では、結局、頭に拳銃を突きつけているのであり、恐怖(metus)によって、Donと対峙している。また、第二幕でも、結局丸腰のボスを瞬時に殺しているのであり、正当防衛が成立するとは言えないであろう。

②Josh 
 他方、Joshにとっての分岐点は、エンディングでBenを簡単に撃ち殺す箇所である。
 なぜ、Joshは、発砲前に警告をしたり、撃たずに身柄を拘束しなかったのか。なぜ、山田はそのように描かなかったのか。結局、この犬の世界では、Publicが機能不全を起こしているのである。

③Pariyas民衆
 さらに、この社会にとっての分岐点は、民衆が、党派対立に「無関心」でいた点である。しかし、①の意味での距離を置く「中立」は、公権力に要請される原則であって、「私」は、個人が追い詰められた際に、その個人に寄り添うべきなのである。

 つまり、白昼堂々 The Dogsの勢力が凄惨な皆殺しにあっているにも関わらず、何もアクションを行わなかったからこそ、Stanは孤独に追い詰められ、暴走することとなったのである。しかし、立場はどうであれ、凄惨な皆殺しを行ったSPWにやりすぎであるという社会の意思表示をすべきであったのであり、孤独に追い詰められた、Stanに連帯を示さなければならなかったはずである。

*5 同様の指摘をおこなうものとして、aKG@akgloopandloop氏のポストがある。

https://twitter.com/akgloopandloop/status/1313845176054411264?s=20

(3)結

 以上のように、このPhilipは、主義主張を持った暴力団体がいなくなったというポジティブな話では全くない。そして、主義主張の対立という分断自体が悪いという話ではない。
 むしろ、個人のかけがえのない生命を犠牲にせざるを得なかったにもかかわらず、主義主張を乗り越える言語というコミュニケーションが欠如したことで、次世代にも同様の構造が残存するという救いようのない話として捉えるべきである。
 しかし、Publicが「私」と癒着しないという意味での「中立」と、民衆の無関心という「中立」が混同されると、所与である分断そのものが忌避すべき対象、なくなると「きれいになる」ものとなってしまうのである。

 山田作品は、政治が成り立たない現実に対する処方箋を描かない。逆に言えば裏側から書いているとも言える。

 しかしながら、その選択によって、視聴者が問題点に気づかないまま、現状追認の表面的な解釈によって、作品をただ単に消費してしまうおそれもある。本記事は、そのような風潮に言語を用いて、一石を投じようと試みたものである。(了)


以下、続きの文章はないですが、良いと思った方がいれば、有料エリアを設定しておきますので、購入頂ければ幸いです。

ここから先は

0字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?