温泉の話 4 静岡県 下賀茂温泉

アロエの力

カラカラカラカラ あまりにも日差しの強い露天風呂の中、その嫌な音が耳に残って離れなかった。ひどく暑かったが、私はゆっくりと温泉につかる気分ではなかったので、ただボーっと露天風呂の白い長椅子に座っていた。踵には大きな切り傷があって、その上には更に大きな絆創膏が張ってあった。まだ完全には血が止まっておらず、踵に張られた大きな絆創膏は真っ赤にそまっていた。それでも傷の具合は数時間前にくらべれば格段に良くなっていて、痛みもどんどん和らいできていた。1994年の7月16日。やたらに日差しが強かった夏の日。下賀茂温泉の日帰入浴施設である「銀の湯」の露天風呂。フラフラとした意識の中で、私は露天風呂のずっと上にある細くてまぶしい雲をじっと眺めていた。
 下賀茂温泉は伊豆半島の最南端にある、小さな山に囲まれたのどかな温泉である。温泉のやぐらが小さな平野の中に点在し、真っ白な蒸気がモクモクと上がっていて、なかなか風情がある。お湯は豊富で高温、無色透明で癖がなく、サラッとした感じの名湯である。しかし私は今日、下賀茂温泉に来た訳ではなく、本当は地図にも載っていない吉田浜という海に遊びに来た筈であった。吉田浜は3方を急な山に囲まれた汀線150mほどのゴロタ石の海岸で、水はとても澄んでいて驚くほど沢山の魚が泳いでいる。私は去年たまたま発見したこの浜の大ファンになって、今日も朝の三時に家を出て南伊豆に向かったのであった。
 下田から石廊崎を越えて更に国道を進むと、下賀茂温泉がある。温泉の中を通り、10分ほど進むと左手に細い路地の入り口が見えるが、その路地こそ知る人ぞ知る吉田浜へと向かう1本道だ。道は細い上にとても急勾配で、本当に秘境に向かう道のよう。この急な峠を越え、海まで一気に下れば吉田浜である。しかし吉田浜の眼前、海の見える大きな右カーブを曲がり切れずに、車は宙に浮いた。私の叫び声、大きなブレーキ音とタイヤ痕を残して、私は車ごと3mほど下のアロエ畑に落ちていった。左のタイヤから落ちた車は、ゆっくりと逆さまになってすぐに動きを止めた。唯一タイヤだけが動いていて、浜風にまわる風車のようにカラカラカラと音を立てていた。
必死で車から這い出した私は、窓を抜ける時にガラスの破片で踵を切ったようであった。血がダラダラと流れていたので、私はアロエ畑からアロエの葉をむしって傷口に塗ろうと思い、車道によじ登って道路に腰掛けた。少し落ち着こうと大きく深呼吸をすると、空が物凄く青くて驚いた。空は凄く青くて、海には白い波がたっていて、踵の血が物凄く赤かった。その3色は鮮烈な印象として、今でも脳裏に焼きついている。日差しは強く音を立てて肌を焼き、それでも時折海から吹きつける強い風は、意外なほど涼しかった。気がつくと吉田地区の人達が心配そうに私のことを見ていた。私はアロエ畑の持ち主に謝罪し、電話を借りてレッカーを呼んだ。レッカーが来るまで4時間かかるとのことで、私は時間を潰しに銀の湯に行ったのであった。レッカーに揺られ、真夜中に家に着いた時にフト踵に目をやると、傷はすっかり治っていた。  
下賀茂温泉   効能 切り傷 アロエとの併用が効果的。

※今はとっても安全運転なのです

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