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お試し妻の味(2)

「お恥ずかしい話なんだが、実は妻が……」
 そう言ったっきり勝田大作の口は止まってしまった。
 まったく金持ちはこれだから困る。応接テーブルに備えつけられている煙草入れに手を伸ばしながら、吉井勇介は心の中で呟いた。

 ガラスケースから煙草を一本抜き取り、銘柄を確かめる。セブンスターだ。やっぱり。
 上場企業の重役室なんだから高級煙草が置いてあってもいいと思うのだが、どこの会社へ行っても国産の庶民的なやつばかりだ。
 重厚な壁、その壁の高そうな絵画、仕事には向きそうもないデスクと椅子。社長室の調度を見回しながら、勇介は何だか空しい気分になってきた。

 これほどの部屋の住人でも、やっぱり一人の男となれば貧乏人と同じなのだ。女々しくて未練たらしくて嫉妬深くて情けない。
 地位と名誉、要するに金の力で、自分よりも20歳ほども若い女を手にいれておいて、そのくせ大した年月も経たないうちに今度は不安になる。
 まったく男ってやつはどいつもこいつも……。

 しばらく指先で弄んでいた煙草を口にくわえながら、ちらっと腕時計に目をやる。
 ちぇっ、早く腹を決めて言っちまえよ。こっちは何が起きたかとっくにわかっているんだから。
 備えつけのではなく、自分のポケットから取り出したジッポーで煙草に火をつけ、蓋を閉じる音がパチンと響いた時、勝田が口を開いた。
「実は妻が姦通したんだ」

 思わず吹き出しそうになった。
 姦通? 何という時代がかった、おまけに大袈裟な言葉だ。
 だが、勝田は事の次第を一言で説明するその言葉で腹が据わったらしい。
「浮気ではなく、強姦だったんだ。そう、はじめは絶対に無理矢理だった。そのことはあのビデオを見れば明らかだ。麻利子はあいつらに犯された。何度も何度も。かわいそうに。汚されて泣き叫んで、それでもあいつらは私の妻を許さなかった。チクショー」

 さっきまでの躊躇が嘘のようだった。矢継ぎ早の告白に、今度は勇介がついていけない。
「ちょっと待ってください、勝田さん。はじめは強姦だったってどういう意味ですか。ビデオって何ですか? 少し落ち着いてまず概略を冷静に教えてください」
 勝田の言葉を遮って、意識的にゆっくりとした口調で勇介はうながした。
 一瞬空を見詰めた勝田が正気に戻る。そして、整然と何が起きたかを語り始めた。

 勝田の妻、麻利子がレイプされたのは1ヶ月前のことだった。
 買い物帰りに3人の若い男に声をかけられた。無視して車に乗り込もうとしたところでいきなり暴力は始まった。ナイフを突きつけられ、脅され、彼女は人気のない工場跡地まで車ごと連れて行かれた。
 すでに閉鎖されている工場の事務所に引きずりこまれると、男たちは麻利子に襲い掛かった。
 服を引きちぎられ、下着を剥ぎ取られ、そして男たちが「姦通」に及んだというわけである。

 勝田の話によれば、随分長い時間だったらしい。男たちはそれぞれ「何度も何度も」麻利子に突き立て、やはり「何度も何度も」射精した。
「ビデオ」とは男たちがその一部始終を撮影したものである。レイプから数日後、勝田の自宅に小包で届けられた。
 結果的に、このビデオが男たちの命取りになる。小包を受け取ったお手伝いが、妻にではなく勝田にビデオを渡したからだ。

 ビデオの内容を見て、勝田は相当狼狽したに違いない。それでもエリートらしく迅速に事態を収拾するために手を回した。上場企業の重役ともなれば、裏社会とも多かれ少なかれコネクションはある。
「あいつらの方はもう片がついてる。問題ない。二度と私の妻に近づくことはないだろう」
 重役らしく威厳ある口調で勝田はそう言った。
 勝田の注文を受けたその筋の者たちが手際よく対処したということだ。レイプ犯を見つけ出し、彼らの流儀で適切な処置をとった、というわけである。
 それがどんな処置だったか、そのために勝田がいくら支払ったのかは勇介にとってどうでもいいことだった。

「ただ問題がちょっとあってね」
 やっと本題に入ってくれたか。すっかり重役然とした態度に戻った勝田を見ながら、勇介も少し身構える。一面識もない俺なんかにわざわざ依頼してくるほどだ。何か特別な頼みがあるに決まっている。
「実は妻が……なんというか、様子がおかしいんだ。何だかそわそわしているというか、浮ついているというか。普通ならあんなことがあったんだから、塞ぎ込んだり、情緒不安定になったりするものだろう。ところが麻利子はあれ以来、かえって明るくなったんだ。明るくなっただけじゃない。色気が増してきたというか、妙に艶っぽい……」

 勝田の顔がまた曇った。社会的な立場が役に立たない世界にまた逆戻りしてしまったようだ。テーブルに落とした視線が力ない。
 また沈黙か、勇介が仕方なく再び煙草に手を伸ばそうとした時、勝田が顔を上げた。目が合った。懇願するような視線だった。
「吉井さんは名器についてお詳しいとか」
 なんという間抜けな質問だろう。
 だが、勝田のあまりに真剣な表情に、勇介も真剣な表情で答えた。

「別に名器に詳しいというわけではありません。女一般というか、女性の方との交わりが人よりちょっと多いというだけのことで。もちろん名器と呼ばれる女性の、その陰部に遭遇したことは何度もありますが。
 一般的に名器と言われるものには、ミミズ千匹やかずのこ天井などがあります。いずれもオマン……いや、膣の中の襞が多いことが条件のようです。締まり関係では蛸壺とかきんちゃくとか俵締めなんて呼ばれているものもあります」

 真面目に講釈をしている自分が滑稽だった。とてもこんな立派な会社の重役室でする話ではない。
 だが、それだけに思いつめた表情ですがるような眼差しを向けている勝田が可哀そうに思えてきた。

 すでに五十代半ばだろうか。
 一流大学を出て、実直に仕事をこなし、重役の座まで登りつめ、ようやくほんの少しの厚顔さを身につけたばかりという感じの男である。
 そう言えば、勝田に勇介を紹介した新宿のママが「一流企業の重役といっても彼は意外に気が小さくてナイーブな人だから。勇さん、やさしくしてあげなきゃだめよ」と言っていた。

 表の仕事、といっても勇介自身にとっては表も裏もないのだが、フリーライターという看板を掲げながらも、女絡みのよろず相談を引き受けるようになったのも新宿のママがきっかけだった。
 ママの店に飲みにやって来て悩みを漏らす客が信用できる相手なら、彼女は勇介の名前を出し、斡旋するようになったのだ。
 結果的に何でも屋扱いされているようで、はじめは相当抵抗していた勇介も、いまではこの商売に片足をすっぽり突っ込んでいる。法外な礼金の魔力に負けたこともあるが、依頼人たちについつい同情してしまったからだ。

 同情というより、共感と言った方がいいかもしれない。
 彼らが必死で取り繕おうとし、しかしどうしようもなく露呈してしまう情けなさや惨めさは、同じ男として勇介も抱えているものだった。
 だからこそ、そんな男たちを前にして、勇介は無性に苛立ち、それでも彼らの依頼を引き受けてきたのである。

「そのあたりのことはママから伺っています。随分豊富な女性経験をお持ちだとか。そこでお願いなのですが……」
 そこで一息ついてから、勝田は意を決したように続けた。
「私の妻が名器かどうかを確認して頂きたい」
「はあ。つまり奥さまと、その……姦通してほしいということですね」
 テーブルに目を落としたまま勝田がうなずいた。
 ここでいじめるのはかわいそうだ。事務的に事を進めてあげないと、この男また女々しくなってしまいかねない。勇介はそう判断した。
 すでに同情の状態に入っている。

「もちろん、奥さまと……えっと姦通ですか、するのは一向に構いません。ですが、問題が一つと、わからない点が一つあります。まず問題の方ですが、奥さまが私と……その姦通をするのを了解するかどうか。これがまず難問です。
 それから不明点の方ですが、レイプされたのはお聞きしましたが、それと奥さまが名器かどうかとどういうつながりがあるんですか。どうにも腑に落ちないのですが」
 無言でうなずきながら勝田がソファから立ち上がり、自分のデスクの引き出しから紙袋を取り出して、勇介に手渡した。
「これを見てもらえれば、おわかりになるかと。大変恥ずかしいので、一度だけ見たらすぐに返却して頂きたい」

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