見出し画像

このお話は終幕のあとで(4)

※当記事は米澤_穂信・著『愚者のエンドロール』の二次解釈小説であることをここに明記します。これら記事のいかなる表現、内容も原作者・原作と何等無関係であり、この記事に起因する紛争は全て記事製作者の責任です。著作権権利者、又はnote運営管理者より何らかの要請を受けた場合、一切異議申し立てることなくすぐ従うものです。


 始業日の放課後、2年F組に入須を訪ねると不在だった。ただ企画参加者たちで完成上映会をしていると聞いて、視聴覚室に向かってみた。結果を言えばそこにも入須の姿はなかったのだが、『万人の死角』と題された映画を観ることができた。よくできた脚本だった。カメラワークを根拠にした叙述トリックが解き明かされる場面は、前半の退屈さを差し引いてもおつりが出るほどの驚きだった。
 海藤は死に、鴻巣はザイルを持たず、ふたりの間のやむを得ない事情は、そんなもの最初からなかった。
 けれど筋書きは手放しで賞賛できる出来だ。映像の前半でザイルはまだ登場していない。ならばそれを無視しても映像に矛盾は生じない。俺は脚本や小道具の指示にこだわって考えたが、これの考案者は前半の映像からトリックを組み立てたからこそカメラマンの実在へと発想が至ったのだろう。
 こんなものを思いついた人物に興味が湧く。江波は「古典部」と言っていたが、そもそもどのような部活なのか。古典といってもジャンルは明示されていない。古典と名がつけば文学でも科学でも何でもいいのだろうか。そのような広範な知識と好奇心を嗜むからこそこういった結論を導き出せるのだろうか。
 ちょうど出て行く生徒の中に知った奴がいたので脚本の考案者について聞いてみた。どうして俺がこんなところにいるのか訝しんでいたが、それよりも何故か古典部という単語に嫌悪感を露わにした。
「古典部の一年さ。もっとも、古典部には一年しかいないみたいだけど」
 そこで入須が開催した推理大会の経緯を知った。四人のオブザーバー、三人の探偵役、その全てを却下して鮮やかに今回の決定案を提示した古典部の一年生。
「たしか折木。折木奉太郎と言っていたよ」
「折木奉太郎……」
 いや、それにしてもこいつは本当に悔しいんだな。折木君の名前を言うだけでも忌々しげな感情を隠そうともしない。目の前に折木君がいるかのように中空を鋭い目つきで睨みつけている。
「気に入らないか、この脚本は」
「…………」
 ぐっと黙って今度は俺を睨みつけてきた。勘弁してくれ、と俺は両手を上げて首を横に振った。しかし、次に聞こえてきたのは意外な言葉だった。
「すごいと思うさ。僕には考えも及ばなかった」
 しおらしささえ感じる声だった。
 彼は古典部に披露した自分の考えを言うと、しかしとこう続けた。
「窓があんなに固いとは知らなかった。あれではどのみちトリックは成立しない。僕の敗因は机上の論理で終わって現場を知らなかったことだ。悔しいけどこれは真実だ」
 そんなもの真実でも何でもないよ、と出かかった言葉を飲み込んで、そうかもねと毒にも薬にもならない相槌を打った。けれど彼はそうやってしょげているばかりではなかった。
「しかし、廊下の密室はどうする。いや、そこは本郷の意図の外だったとしても、ザイルは。僕らだって無駄に道具を手配したわけじゃない。確かにザイルが必要だって言われて……」
 彼の声は段々と小さくなっていき、きょろきょろと周囲を気にするように辺りを見回した。
「まあ、あんまり大きな声では言えないよ。ザイルだって本郷のうっかりかもしれないし」
「ああ、かもな」
 教室を出て行く彼にありがとうと手を振る。
 入須には会えずじまい。しかし、彼のおかげで今回の件の流れがだいぶ見えてきた。映画も見られたことだしと満足して引き上げようとして踵を返しかけたが、最後まで席に残っている生徒の中に江波の後ろ姿があった。隅の席で一人の女子を連れ立っている。俺は思わず歩み寄った。
「江波さん」
 俺に気がつくと江波は途端にバツの悪そうな顔をした。一緒にいる女子は知っている人? などとのんきに江波に問いかけている。江波が彼女に小さく耳打ちをして俺を指さした。
「ええ、本当に?」
「そう」
「そうなの……」
 女子生徒がゆっくりとこちらを向いた。
 女子生徒は、間違いなく本郷であるその女子は、思案しているというよりも反応に遅れているような印象だ。江波はすぐにでもこの場を離れたいのだろう、本郷の手を引かれて連れて行こうとする。本郷にはそれに逆らうだけの力はなさそうだし、俺もそれを引き留めてまで何か話があるわけでない。
 問うべきは入須に。そう思っていた。
 しかし、途端に俺の気持ちは一瞬にして塗り替えられた。
 本郷がはにかむように微笑んだのだ。まるで何の不満も抱いていない、本当に嬉しげな笑みだった。
 俺は思わず本郷の腕を掴んで引き留めた。
「悔しくないのか」
「ちょっと」
 とっさに江波が強い語気を放って間に割り入ろうとする。俺の手から本郷の細腕を解放して自らの背中へと匿った。俺はお構いなしにさらに問うた。
「悔しくないのか。本郷、お前は。お前の書きたかったものは」
「やめて」
 江波が掴みかかってきた。先日来の江波からはとても想像ができない。けれどこちらだって止まるわけにはいかない。
「あそこにはないぞ。お前が書かないとどこにもないぞ」
 自分の手が、いや全身が震えているのがわかった。なんだろう。怒りだろうか。違う。悲しみだろうか。たぶん違う。何か、何かが俺の全身を支配して理性の制御を失わせた。江波に胸元を引っ張られてシャツは今にも引きちぎれそうだった。俺と江波の視線が衝突した。江波は俺を睨みつけていた。怒っているように見えた。違うだろう、お前が怒る相手は、違うだろう。
「江波」
 本郷は短く呼びかけて横から江波の手元に手を添えた。江波は何か言いたげに口元を歪ませたがすぐにシャツから手を引いた。自由になった俺は改めて本郷を見た。印象に違わぬ人物だったが、肌色は思った以上に青白かった。
 本郷は俺を見上げると、先ほどと同じはにかみを浮かべた。
「私、映画が完成して本当によかったって思っているんです。ばんざい、なんて」
 両手を小さく上げて恥ずかし気に頬をかく本郷の姿に、俺は途端に気が抜けた。先ほどまで全身を満たしていたエネルギーが全く削がれてしまい、半ば信じられない気持ちで本郷を見遣った。
「悔しいとか、悲しいとか、そんなのはなくて、みんなに迷惑かけちゃったなって。本当だよ。ごめんなさい。協力してくれたんだよね。ありがとう。本当にごめんなさい」
 違う、と俺は首を振った。けれどどう違うのか、ぱっと言葉が出てこなかった。
「もったいないよ。だって、あれは本郷の……本郷が何を書きたかったのか、俺は読みたい」
「ごめんなさい……」
 本郷は相変わらずはにかんだままだった。江波は心配そうに本郷と俺を見比べていたが、俺に意気がなくなったと見るや否や素早く本郷の手を引いて教室を出て行った。
 教室はちょうどよく誰もいなくなった。俺は手近なイスに座り込んで真っ白のスクリーンを見上げた。

 しなければいけない話、というものはなくなってしまった。例えば今、入須と向き合ってなにか話すことがあるだろうか。脚本のこと、江波のこと、本郷のこと。どれもこれも与り知らぬところで勝手に解決して、妥協して、納得して。俺はやはり外野だ。糾さなければならないと息巻いていたあの意気も本郷の様子を見てすっかりしぼんでしまった。これ以上の踏み込みはお節介とすら言えない。
 入須は言った。責任は負うと。もしもうこの件が、これ以上何も発展しないのであれば俺は何もしなかっただろう。しないというか、できない。これも違う。ここはやはり、興味がないというべきか。
 どれ、映画の感想でも言ってみようか。
 けれど、巡り合わせというのは予想外にやってくるもののようだ。
 試写会翌日の放課後。昨日から続けて入須の姿を見つけられていない。別のクラスとはいえその日その時まで一度も会えなかったのは純粋な偶然といえども、稀有な例だった。だから、下校する生徒であふれる昇降口から出て行こうとする入須の姿を見かけたときはとっさに追いかけてしまったし、男子生徒が入須を呼び止め、入須が彼を「折木君」と呼んだときこれは何かがあると直感した。男子生徒、折木君の様子はどこか思いつめたような雰囲気だった。
 通りを抜けて川沿いの細い道に出る。この方向は、と思っていると二人が店に入った。少し待ってから近づくとやはり。「一二三」と小さく染め抜かれた小豆色の暖簾が川風に小さく揺れている。
 一人で入るのは初めてだった。俺は心もとない財布の中身を思いだしてからえいやと敷居を跨いだ。
 二人はもう席へ案内されているようだった。通り側の座敷席から注文する入須の声が聞こえる。出迎えてくれた店員に、そのとなりの席は空いているかと聞き、その場でコーヒーを注文した。店員は怪訝そうに俺と座敷のほうを交互に見遣ったが、何をどう納得したのかするりと案内してくれた。
 折木君はどんな話をしようとしているのか、二人の後をつけながら考えていた。
 折木君は最初、2年F組のオブザーバーとして参加した。そして三案を却下したのち、あの脚本を考えた。では、折木君はあの脚本が本郷のものとは違うと自覚しているのだろうか。もし自覚があるのであれば折木君も入須と同じくらいの食わせものだと言えるだろう。しかし、無自覚ということなら? 自分の無自覚と入須に踊らされていたことに気がついたとしたら?
 それが今なのだろう。
 入須が水を向ける形で折木君が話し始める。折木君自身の本当の役割、本郷の参考文献、垣間見える本郷の嗜好、アンケート結果を引いた本郷の脚本内容への言及、表出した本郷とクラスメイト間の方向性の問題、推測される全体的な出来事の流れ。すごい。これほど少ない資料から本郷像と脚本の内容、問題の核心をほぼ正確に組み立てている。これには比肩しえない。才能だ。入須の策略に応えうる最高の適任者だ。
 しかし、これらの推測は全て、折木君にとっては付帯的な内容に過ぎない。
「では! 俺に技術があると言ったのも、全て本郷のためですか。いい代案が出てくるように」
 たまさか折木君の声が店内に響く。
 なるほど、入須はそう言って折木君を説得したのか。彼に活発な印象はない。自ら矢面に立とうという気概を発する質ではないだろう。そんな折木君がどうして入須の頼みを聞き、2年F組の脚本に携わるに至ったのか。
 そうまで言って唆していたのか。
「誰でも自分を自覚すべきだといったあの言葉も、嘘ですか!」
 店内は静まり返り、店員がふたりの席の様子を窺う。風鈴一鳴、蜩の郷愁が窓から染み渡ると、いよいよ入須は言い放つ。
「心からの言葉ではない。それを嘘と呼ぶのは、君の自由よ」
 厳然さ際立つ実に入須らしい台詞だ。これを聞いた店員たちはさっと顔を引っ込めて息を潜めた。
「それを聞いて、安心しました」
 意気も気勢も何もかも失われた声はやがて小さな物音に代わり、折木君は席を立ち、店を出て行った。
 よかった。とてもよかった。この場でなければ立ち上がって大きく拍手をしてこの二人を称えただろう。最高のエンディングだ。やはり入須、お前は特別だ。
 いつの間にか置かれ、しかもすっかり冷めてしまったコーヒーを一息に飲み干す。せっかく入ったがのんびりはしていられない。入須はもう少し落ち着いていくのか、店員を呼んで新しく注文している。
 入須がそちらに気を取られている隙に退店しよう、そう思って鞄を背負った。
 途端、コンコン、と背後の壁が鳴った。壁の反対側は当然入須だ。ストラップか何かが当たったのだろう。しかし、すぐにまたコンコンと、先ほどよりも強く鳴る。
「おい」
 と入須が俺の名前を呼んだ。
「お前はなにか飲むのか」
 俺は逡巡して、こちらにやってきた店員にもう一杯コーヒーを頼んだ。鞄と伝票だけ持って座敷を移ると、双方黙ったまま俺は先ほどまで折木君がいた座布団に胡坐をかいた。
 折木君の食器が下げられ、しばらくしてそれぞれ頼んだものが運ばれた。
「それで、お前も話があるんだろう」
「話?」
 俺は温かいコーヒーに口をつけながら問い返した。
「俺は入須に話があるのか?」
「だから尾行などしてきたんだろう」
 自分の顔が少し顰められるのがわかった。そう真正面から言われるとわずかながらでも罪悪感が湧く。
「それは悪かったよ」
「本当にそう思っているのか、お前は判断に迷う」
 それはどういう評価なのか。名誉なことではあるまい。
 俺は迷いながら、まずは、と小さく拍手をした。
「映画完成おめでとう。土壇場で状況をひっくり返したその手腕、やっぱり入須は特別だよ。2年F組の企画は無事成功を収めたわけだ」
「何も私一人の力ではない。皆の努力、とりわけ折木君の尽力が大きい」
 入須はふと俺に目をやって聞いた。
「お前は彼のことは知っているか?」
「折木君? 古典部……てことだけ。顔を見たのも初めて」
 そうか、と入須は一言ですましてまた進行権をこちらに渡してきた。
 俺は次に今回の出来事の確認と入須の意図を尋ねようとした。
 しかし、やはり口にできない。こうやって思いとどまったのはひとえに本郷のあの態度だ。俺は同じく制作に携わる人間として、入須の態度を糾さなければと息巻き、しかし本郷に気を抜かれてしまった。それを今、機会が巡ったからと入須に問うのは、果たして意味があろうか。少なくとも本郷が、入須の態度を白日のもとにさらすことを望んだりはしないだろう。
 そこを俺は口惜しく思うのだけれど。
「どうした」
「あ、いや……はは」
「なんだ、急に」
 急に笑いが込み上がってしまった。入須は不気味そうに眉をひそめたが、誰が俺を責められようか。俺は本当に盗み聞きをするためだけにここにいたのだ。なんて悪趣味なんだろう。
「あの映画、本当にいい出来になったな」
「……ああ」
「叙述トリックは二回楽しめるんだ、知っているか? どこに伏線があったのか、本当に成立しているのか。見たい人は何度だって見直すさ。それだけ観客数の累計を見込める。折木君が偶然たまたま叙述トリックに辿りついたのだとしたら運がいいよ。勿怪の幸いってところか。撮影も小道具も広報もあの出来なら文句ないだろうし、ハッポウヨシってやつだ。入須もさすがに満足したんじゃないか?」
 しかし入須は、カタンと音を立て茶器を置き、入須は冷え冷えとした声音で問い返してきた。
「それは皮肉か? 出来の悪い冗談か?」
 俺は驚いて言葉につまってしまい、まごついているとそれをどうとったのか、入須はポツリと言葉を零した。
「遠回しに言われるのは嫌いだ」
 入須は視線を通りのほうへ外した。そんな入須の態度に俺は不満に思った。皮肉か、冗談か、それとも遠回しな非難とでも取ったのだろうか。馬鹿な。今はもうエンドロール。本編に何の影響も与えない、ただ作品の余韻に浸るだけの時間なのに。
「……虚飾はあるかもしれない。けれど虚言は言わない。皮肉だって言うなら何が皮肉なんだ」
 入須はちらりとこちらを一瞥してまたすぐ通りへ目を向けたが、やがてゆっくりと目を閉じた。入須はしばらくそのまま、自分の裡で何か整理をつけているようにじっと微動だにしなかった。ようやくうっすらと瞼を上げると、先ほどまであった目元の険しさは、少し緩んだように思えた。
「そうだな。お前が私に嘘をつけようはずがない。買いかぶりすぎたようだ」
「それもそれで……」
「お前は正しく本郷の描いた構想に辿りつき、結果として私はお前を脚本家の役から外さざるを得なかった。まさか完成試写会に紛れていたとは想定外だが、ならばなぜおまえの辿り着いた脚本を採用しなかったのか。気にならないのか?」
 気にならないはずがない。許されるのなら聞きたい。けれども、もう。
「事情は大方江波から聞いたよ……聞いたっていうか白状したっていうか。折木君の話も大体そのとおりなんだろう。そのあたり、俺はもうどうだっていいんだ」
 だから、俺は代わりにこう聞いた。
「入須にとって、この企画の到達点はどこだった? 映画の完成? それとも……」
 入須は迷わず答えた。
「映画の成功。それだけだ」
 じゃあ、と俺は聞き返す。
「その成功には、大衆的なって付く?」
「そうだ」
 そう、入須も目標はそこだった。だから脚本の強度をあげるしかなかった。撮影も編集もあの小道具さえも技術不足と断じざるをえないならば、物語自体の底上げが最後の望みだったのだ。
 きっぱりと言い切る入須の姿に少し憐れみを感じた。
 通りに目をやった。窓の外に組まれた格子の隙間から、ずいぶん傾いた日が町を照らしている。まるで慈母が子らを慰めているようだ。昼間はあれほど苛烈だというのに。
「これだけ知れれば十分……これ以上気にするって言うなら、本郷と話しなよ」
 俺は胡坐を組みなおした。コーヒーはまたもや冷めきっている。少し飲んでカップを戻すと、待っていたように入須が言った。
「それができれば世話ないさ」
 少し笑っていた。そうだな、と俺も小さく笑った。
 本当に入須は今回の全てを負って終わるんだ。
「おつかれ入須」
 口をついて出たねぎらいの言葉に、俺はようやく合点がいった。
 言いたいのはそれだけだったのだ。