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久保沢、2時間-歴史への憂鬱-

今日は文化の日です。
例年ならば「相模湖小原宿本陣祭大名行列」があるはずでしたが
今年はコロナ、昨年は台風で中止。
今年は「コスプレ」してないなー。

今日は、月光団700回記念の取材。

土平治

です。

前々から取材したかったんですが、今年やっと本格的に取材に取り掛かりました。

で、今日はとある場所でお話を伺うのですが

その場所がなんと

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ご存じ。津久井観音霊場第5霊場 大正寺久保沢観音堂

おお・・・
まさか、ここに来るとは・・・

駐車場につき、久保沢観音堂の長い階段を登ろうとすると

「その階段の横を見てください」

と、上から今回お話を伺う郷土史家の村田さんの声。

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「この大きさの庚申塔は珍しいですよ。左右で色が違うのは石の種類が違うんです。これでも相模原市の指定文化財になってないんですよね」

・・・観音霊場巡りの時には気づかなかった。

境内にある石塔や石柱を解説していただき、観音堂のいわれなども教えていただきました。

観音堂に入るまで30分。
そんなに広くないのに歴史があるなー。
話が面白くて、写真を撮り忘れました(笑)。
録音はしましたので個人的に楽しみます(笑)

今回の土平治の取材もそうですが、僕が楽しみにしていたのは
今回はご厚意で見せていただく

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久保沢観音堂の百体観音。

見たかった。
観音霊場巡りでも御開帳年しか見れないから、いつも見れなくて。



この百体観音は、久保沢観音堂内にまつられており、西国1番から33番、坂東1番から33番、秩父1番から34番(21番は2基あるため35基)の札所番号を刻した台座にのる101基の石造観音像で、現在まで1基も欠くことなく維持されています。形状は立像、坐像、半跏像の3様を丸彫りまたは浮彫りにしたもので、すべて丸形または舟形の光背を付け、彩色が施されています。大きさは様々で大きいもので総高52センチメートル、小さいもので24センチメートルを測ります。
各最終番の像に刻された銘文によると、本像の造立は明治11(1878)年に大正寺の前身である桂昌寺の住職山本渓山が発願したもので、明治27(1894)年にすべての像が奉納され101基が整いました。また、秩父35基には石工「北原祥重」の名が刻まれています。観音像の像容には、聖観音をはじめ十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝(じゅんてい)観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音の7種類が認められます。 
各像の造立者は個人が多く、久保沢を中心に現在の伊勢原市域や川崎市域、東京都、埼玉県、群馬県の在住者も見られます。造立目的は先祖供養やこの地域で盛んであった養蚕祈願などです。
久保沢観音堂では、10月の9日、19日、29日を「オクンチ」と呼び、現在でも大正寺住職による読経などが行われています。
(相模原市ホームページより)

オクンチにお邪魔すれば見れたんだ。
知らなかった・・・。

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色も残っています。

よく見ると奉納した個人名も見えますね。

「この名前の人はあっちの家の人で、この名前はこっちの家の人で」

村田さんから解説を受けながらの初のご対面。
贅沢だ。

この観音像一体で現在の技術でも20万くらいかかるそうです。
てことはここにあるだけで2000万。
市があった久保沢がどんだけ裕福だったかわかりますね。

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ずらりと百体観音の写真です。表情も様々。

この空間には久保沢の歴史がつまっています。

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オクンチの写真。

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不動明王。

そして

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これ。これはすごい。

黒い板だとお思いでしょ。奥さん。
よく見て。字が書いてあるから。

これが有名な「五ぼうの掲示」です。

慶応4年三月、五ヶ条の御誓文と同日に太政官が出した五枚の制札で「五ぼうの掲示」と呼んでいます。庶民が守るべきことがらを示してあります。旧幕府の高札を撤去し新たに建てたもので、第1札から第3札までは幕府の政策を継承するもので五倫をすすめること、おおぜいで集まり村から逃げ出したり一揆をしないこと、キリスト教を禁止することなどが示されています。4。5枚目は一時的な掲示として外国人にたいして奉行をなすを禁ず」「他国へ逃げる」などの禁止事項が示されています。5枚もの制札が今も観音堂の壁に掲げられています。

明治政府のお達しがこの久保沢に掲げられたのです。
それだけ、多くの人がここにいたということですね。
それが5枚もあるだなんて。
歴史だね・・・。歴史。こんなに黒くなっているのも歴史の積み重ねですね。

「いや。昔、消防団がこの板の下でたき火をして、そのすすがこびりついたんだよ。」

・・・歴史ですね。

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この久保沢観音堂の中の話だけで一時間。
本当にいい時間でした。楽しかった。

このあと、1時間ほど土平治の取材なんですが

まあ、そちらの内容は11月14日をおききくださいな(笑)


本当、僕はこの街の事を知らないな。
日々勉強です。

村田さんのような、郷土の歴史を留める人と話しをして気づきます。

確かに郷土史はちょっと地味です。
織田信長とか明智光秀とか西郷隆盛とか「はでな出来事」はなかなか出てこないです。(彼かも広義的な意味で郷土史の人物ですけど)

郷土史は、その街に住んでいた人々の息遣いが凝固したものです。
自分の家の隣の人のおじいちゃんや
自分のおじいちゃんの友達が主人公の物語です。
だからこそ、そこには何も飾らないひとびとの生活を色濃く反映し、地域の民俗を縁どりとしてあります。

僕が郷土史を番組で取り上げているのはそういった理由です。
(あれ?前にも話したかな?)

「そのことには○○○さんが詳しかったんだけど、3年前に亡くなってね」

派手さがない分、非常な地味な作業が多く、若い人が魅了されない。
郷土史に携わる方の高齢化が懸念です。

その道に精通した方がなくなり、蓄積された知識が霧散してしまうことは
郷土史の大きな損失です。

これに平行して、最近郷土史の資料が、その郷土から消えてしまうことも上げられます。

例えば。

古い家の蔵に古文書があったとします。
その蔵の所有者がなくなってしまって、新しい若い方がその古文書を見た時、古文書の価値が理解できなくなる。
そして、その古文書は捨てられたり、安くで売りに出されたりします。
同じような流れで古文書のような郷土の土の匂いを染み込ませたものが地域から消失してします。
この話は最近多い。
家族が一緒に暮らすことなく、口伝的に伝わっていた蔵の中のものが伝わらなくなるからでしょう。

自治体にはこの流れを断ち切るために、市井の歴史の流れを把握してもらいたいな。一度売りに出たものを買い戻すのは大変な努力が必要だし、捨てられてはもはやその郷土ごと捨てられてしまうもんです。

そして、僕たちも少しでもそういった郷土史を知っていれば、どこかで歯止めをすることができたのかもしれません。

僕の務めは、そこだと思います。

郷土の歴史を風化させないために、「音源」として記憶し、記録しておく。

そのためにももっと多くの人に会いに行かなくてはいけませんね

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もっともっと勉強です。
がんばろう。
未来に「郷土史」を残すために


月光団700回記念 土平治騒動
放送日:11月14日(土)17:00~


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