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道。(愛川町日記 2017年7月5日より転載)

今日は

愛川町を物語の始まりと置かずに。


土平治騒動とは

藤野を起点とする近世の神奈川県史で最大規模の土一揆。


酒屋を打ち壊すのですが

城山から津久井にながれ

最終点が愛川町半原と田代で

農民たちの破壊活動は終わります。


この終点が実に興味深い。

現在の相模原市域のうち

旧相模原市域は開発が後発となり

旧津久井地域は山林として江戸時代には

独自の進歩を遂げた。

戦国時代に武田信玄がピストン運動をした道はいつしか彼の名前がつけられ

旧津久井地域と甲州、小田原を結ぶラインの上に愛川町があり

愛川町もそのラインに沿った発展を遂げてきたはずである。

そして、それが段々と生糸という貨幣経済に彩られたときに

たぶんにもれず、愛川町と旧相模原市域、旧津久井地域もそれに染まった。

いわば

甲州→南津久井→愛川町(現相模原大磯線)

ルートと平行して

甲州→北津久井→旧相模原市域(現津久井街道)

が生まれたのである。

そして、このルートは

最終的に

甲州→北津久井→旧相模原市域が優勢となる。

そこには近現代の軍都計画もあるが

北津久井から旧相模原市域をたどる道が

多摩エリア(現町田エリア)に接していたのも大きい。

町田エリアは自由民権運動の巣窟であり、その熱気が北津久井から旧相模原市域にエッセンスを加え、生糸とともに思想を運んだ。


対して

南津久井から愛川町ルートは

確かに上質な生糸は運ばれたが

道全体を覆う活気はなかった気がする。

だからこそ生糸衰退とともに道は細くなり

歴史の裏街道的な道となったのではないか。


町にとっての道とは人で言えば動脈である。

物流だけではなく

歴史や文化といった目に見えない栄養素も運ぶのである。

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