三増の地へ (愛川町日記 2015年10月15日より転載)
10月8日。
この日は愛川町にとって大きな意味をなす。
今から450年前。
北条家の小田原城を攻めた武田信玄が甲斐への撤退中に現在の愛川町に布陣した北条氏照らの軍と激突する。
戦国時代最大の山岳戦・三増合戦である。
永禄12年(1569年)10月8日未明に開戦したこの戦いは、「三増峠の戦い」とも称せれる。
しかし、三増合戦開戦時の布陣を見ると
主戦場は「三増峠」ではなく今でいう「三増地区」ととらえて方が良い。
双方2万の軍勢を備え(諸説あり)、本格的な銃火器の投入が行われた初の合戦であり、何と言っても「甲斐の虎」と「相模の雄」の激突である。
武田側は信玄自ら出陣し、北条側も当主氏康はいないが氏照、氏邦、綱成と猛将がそろっている。
武田側は浦野や浅利の歴戦の武将を失い、北条側は甚大な屍で三増の地を埋めた。
結果は双方痛み分けの感があるが、勝敗を決するのが遅れれば、氏康の2万の援軍が合流し、武田は窮地に陥っていただろう。
三増合戦の始末は、歴史に興味があるものならば、「強豪がぶつかる関東大会」とも位置づけられるだろう。
450年経った今でも「信玄道」などが未だに残るのは、当時からの歴史の中でもこの戦が愛川町に大きな衝撃を与えていた事が解る。
歴史好きには垂涎の合戦である。
その慰霊の意味合い濃く、「三増合戦まつり」が行われている。
今年は町議選の兼ね合いもあり10月18日に行われるが、毎年10月8日前後に行われている。
歴史は過去の遺物である。
私はそう思っている。
物理的に現代社会に組み込まれているものは少なく、精神的に地域を覆うように存在するのが歴史である。
だからこそ、歴史を維持するのは努力が必要であり、未来や現在が歴史として上書きされていく度に、より過去のものは風化していくしかないのだ。
愛川町には歴史が点在する。
代表的なものを挙げれば「八菅山の修験道」や「半原水源地」などがある。
細分化させれば「若宮神社」や「山十邸」などがある。
私は、小桜姫の伝承(歴史とは言い難いかもしれないが)がお気に入りである。
坂本の天野神社付近に「宮坂」があり、別名を「姫坂」という。
この姫坂の由来が小桜姫である。
「中津川を挟んだ対岸の、三浦荒二郎と言う若武者と恋仲になった小桜姫。
笹竿の先に付けた手鏡を陽にかざしてお互いの会瀬の合図にしていたが、
小桜姫がうっかり三浦氏の本城の秘密を敵方に洩らしてしまい、愛しい荒二郎の手で殺されることなる 」
まるで義太夫のような日本人が好きそうな話である。
後世の創作のような感じもするが、「鏡」という非農耕的な存在が物語をきらめかせている。
三浦氏といえば源平の合戦、鎌倉時代の武将である。
(戦国時代に三浦荒次郎という北条早雲とともに戦った武将がおり、彼の性格ならば小桜姫を虐げる事もありそうだが、彼の居城は三浦半島にあったため、中津川からは遠い)
当時、「鏡」は高級であり、持ち出せるものかどうか疑わしい。
愛川町は農耕できる面積が少なく、古来より商業地である。
さまざまな地域から物資が集まる中で、他地域からの伝承が愛川町に流入していく。
半原の宮大工も、作業地で聞いた土地の話を、半原に戻り、子供たちに語ったかもしれない。
そうなるともともと愛川町にあった伝承や民話と融合していっただろう。
この小桜姫の「鏡」はそういったいきさつから年々と加わった部分のひとつなのかもしれない。
閑話休題。
歴史の事を書きたい。
三増合戦にしても、半原水源地にしても、歴史は自然に存在しつづけるものではない。
三増合戦も合戦祭りや標識を建てなければ人々の意識から消えるだろう。
半原水源地も管理されなくては遺構廃墟になるかもしれない。
つまり、歴史は人の手が加わらなくては存在して続ける事ができないのだ。
愛川町の観光資源として「歴史」があるのならば、率先して歴史を「管理」していかなくてはならないのだ。
はたして今その「管理」はできているのだろうか?
はたして今「観光資源」として成り立っているのだろうか?
たとえば、観光資源として三増合戦の地を公園化するとしよう。
駐車場や駐輪場などを整備し、各武将の布陣場所に標識を立てる。歴史解説ツアーなどをする。
農業改善センターと卵果屋を両翼とし、浅利明神までの区画を公園とする。
そうすることにより初めて観光資源化され、歴史が人々の生活に組み込まれて行くのだ。
ここまでの整備は、地区単位で出来るわけではなく、当然行政の力が必要である。
半原水源地は横須賀との行政問題となり注目をあびつつあるが、三増の地には行政の目が届いていない気がする。
合戦祭りの補助金だけでは歴史は長続きしない。
補助金といえば、史跡または名勝に指定されている土地を地方公共団体が緊急に公有化する事業に対して、文化庁の国庫補助事業がある。
史跡または名勝の規模、時代、内容に応じ、建物、遺構等の復元的整備を行うことによって地方の歴史・文化を概観できるような事業、史跡等の構成物である石垣・建物の保存修理、植栽・園路等の環境整備に対しても国庫補助事業がある。
国土交通省でも、国指定の文化財、史跡、名勝等歴史的・文化的資源を活用する観光振興の拠点となる都市公園整備に対して、国庫補助事業がある。
半原水源地なども含め利用しない手はないだろう。
三増合戦は関東戦国時代のカギとなる合戦となった。
三増合戦後、武田と北条の間に大きな展開を見せた。
当時北条は武田のライバルである越後・上杉と手を組み、武田と鎬を削っていた。
三増合戦後、北条は武田と争うのを益とせず(上杉の不誠実な態度などもあるが)、上杉と手を切り、武田と手を結ぶこととなる。
これにより武田のベクトルは義元亡き後の今川領へ進み、織田や徳川を圧迫する。
三増合戦は局地戦ではなく、関東の戦国中期への転換点となった戦である。
愛川町にとってもこの「兵どもの夢のあと」が、観光資源の転換期となる事を願ってやまない。
愛川町の三増合戦祭りは10月18日。
その二日前の今日。
忘れ去られる事を恐れる者たちの涙雨となった。