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諸国漫遊記 #02岩手県

穏やかな終着駅


皆さんは東北新幹線の終着駅をご存知だろうか?
当たり前に新青森駅とお答えになる方が大多数だと思う。
現在の新青森駅が終着駅となったのは、13年前の2010年のこと。
その8年前の2002年までは八戸駅が終着駅であった。
東北新幹線の開業は、1982年で埼玉県の大宮駅と盛岡駅の間でのスタートであった。
実に盛岡は20年間新幹線の終着駅だったのだ。
現在となってはどうでも良い歴史なのかも知れないが、当時は盛岡は東海道新幹線の各駅と同様に仙台と並び東北の雄、都会感溢れる印象の街であった。現在もそうであるが。


東北新幹線 ©️JR東日本

わんこそばのつらい思い出


私が初めて盛岡を訪れたのは、1988(昭和63)年の夏であった。
格好良く記すとすれば「昭和最後の夏」となる。
前回の青森県の回に書いた会社の野球の対抗戦で訪れたのが最初であった。
ルートとしては、当時の千歳空港から花巻空港へ空路で入り、バスで盛岡市内へ移動するというものであった。
会社の行事であったので、出張扱いで旅費は支給され、食事も自己負担はなかったので、行楽気分かといえば、さにあらず試合の勝敗如何によっては人事に影響する、つまり戦力外と認定されれば地方の支店に飛ばされるという危機感溢れる遠征であった。
それでも食事の時間は楽しみで、盛岡の最大のイベントは試合前日の昼食のわんこそばであった。
20代前中盤の肉体労働者に蕎麦の魅力は感じられなかったものの数を競うわかりやすさが仲間内の競争と首脳陣へのアピールチャンスとが相まってスタート前から異様な盛り上がりがあった記憶をある。
最初に蕎麦を見たときには、本当に一口で、これなら何杯でもいけると皆、確信していたが、次から次へと給仕さんが容赦無く麺を継ぎ足すリズムに乗せられて食を進めていくと「あれ、意外と腹にたまる」と違和感が生じ、次にわずかな汁が数を重ねるとこちらも腹にたまる感がでてきて、楽しいはずの食事が苦行へと変化しはじめた。
年配の顧問や首脳陣が箸を置き始めると、給仕さんと蕎麦が若手に集中的に投入され始め、タバコを吸い始めた親父たちが「若いんだからどんどん行け
」とあおり、圧をかけはじめると一層苦しさは増していった。
ベテラン選手が箸を置き、その辺までは給仕さんも相手を見てやめるタイミングを忖度しているように見えたが、若手が残る状況になり、給仕さんもサディスティックさを増してなかなかお椀に蓋をさせてくれなくなった。
最終的に自分は98杯だったと思う。チーム最高は、168杯食べた後輩
だったが、次の日の試合には使い物にならなかった記憶がある。
その店ではわんこ7杯でかけそば1杯といっていた。
それからわんこ蕎麦を食べたことはない。

わんこ蕎麦

甘くない饅頭


北海道と比較すると東北は、日差しも強く気温も高く何よりも湿度が
高いことが不慣れな我々の体力を奪う環境であった。
当時は現在のように運動中の水分補給が許されず、着用しているウェアも
綿主体で汗を吸うと重く体にまとわりつき、体力を奪っていくものであった。
炎天下での練習が終わり、ホテルに戻り、夕食までの自由時間、疲れを
癒すために近所の商店街を間食を求めて彷徨っていると老舗感あふれる和菓子屋さんを見つけ、我々は狂喜乱舞した。
ショーケースには少し大きめの白い饅頭が中央に鎮座しており、皆それを購入した。
速攻でホテルに戻り部屋に戻るのももどかしくロビーのテーブルで戦利品を広げ皆一斉に齧り付いた瞬間、全員の動きが止まった。
「甘くない」
そうまんじゅうの中にはイメージしていた小豆のあんこは影も形もなく漬物様の塩味の野菜が入っていたのであった。
今となれば長野のおやきなど惣菜と菓子のハイブリットがあることを知っているが当時はインターネットもなくまして商店街の一店舗のラインナップを知る由もなかった。
もちろん不味くはないのだが、我々の期待値は疲労を癒す甘さであり、塩味ではなかった。
食べ終えた我々は、再び街に出て喫茶店に飛び込み、パフェを注文するのであった。


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