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私たちに『違いをつけている』もの。
ここ1週間程前から、気になってきたもの。
それは『心(こころ)』。
心ってなんだろう?心ってなぜあるんだろう?と思うことが強くなりはじめた頃、私は夏風邪をひき、3日間、布団生活を過ごすごとになりました。
1日目。
発熱しだすと、目も開けられないくらいに頭痛が酷かったです。
お陰で、日頃の視覚による情報量の多さと、脳の処理能力の優秀さを改めて実感しました。
そして、1日目に私が見たものは、目を閉じた世界。
(つまり、刺激が強すぎて目が開けられない)
ただただギザギザしたアベレージみたいなものが脈を打つように動く画像のみでした。
自分の目の内側に映るその画像のようなものを見ながら、私はただただ心を観察していました。
私たちは混沌とした宇宙に在り、私たちそのものが宇宙同様に混沌的存在である。
だけど、私たちはなぜ同じものを見ても、それが本当に同じものとして見ているのか?
同じようになぜか思えない、感じない。
時には全く正反対であると感じたり、嫌だとか、好きだとか、良いとか悪いとか、思うのです。
時に、さみしさを感じたり、悲しくなったり、怒りたくなったり、楽しいと感じたり、大したことないと思ったり。
同じ母親から生まれても、全く違う性格だったり、体質だったり、気質だったり。
同じ人間という生き物なのに、できたり、できなかったり、行動力が違ったり、憎み合ったり、愛し合ったり。
外側にある目で見たもの、感じたことで、自分のことじゃないのに、人のことを考えたり、思ったり、イライラしたり、愛おしく感じたり、憎んだり、心配したり、頭いっぱいにしたり。
なんなんだろう?これって。
同じものからできているのに、なぜ同じようにならないんだろう?
同じものからできているのに、なぜ全く違う方向に進むんだろう?
同じものからできているのに、なぜ違うんだろう?
個性という称び方もあるけど、それがきているところはなに?
私たちに違いをつけているものはなに?
思考?思考ではない。
思考はどこか無機質的な要素がある。
ある意味ピュアなもの。
だけど、私が感じている『違いをつけているもの』は、もっと複雑で、もっと身近なもの。。。
2日目。
解熱剤を飲んだことで少し楽になるけど、まだ頭は無理。お手洗いに行く、それだけで汗が噴きでる。
少し食べてみると、汗だくになった。
食べることはエネルギーをつかっていることなんだ、と改めて体感で思い出す。
3日目。
37.8〜38.5を彷徨いながらも、私は突然『新世紀エヴァンゲリオンの漫画版を読まねば!』と思い立ち、漫画版のエヴァンゲリオンを完読した。
エヴァンゲリオンの漫画版は持っていたけれど、なぜかずっと読んでいなかった。
なかなか手にとらないので、そのままにしておいたんだけど、、、
結果、『心』に関しての気づきがたくさんあった。
たぶん、なんだかわからないままで読んでいたら、なんだかよくわからないままで終わっていたかもしれない。だから、今で大正解だった。
私は先日、『混沌』というテーマで絵を描いたんだけど、そのまんまの絵が新世紀エヴァンゲリオン(14巻)にも描かれて、涙ボトボトでした。
そこで私が持っていた疑問がクリアになった。
『違いをつけているもの』の正体のこと。。。
4日目の今日。
平熱まで快復。
お陰様でQJ講座のライブセミナーにも参加できました。
今回のセミナーでは【私はどんな世界を実現したいのか】を知る旅。
セミナーのワークで、過去の思い出を遡ったり、記憶に残っている言葉だったり、課題や未来の目標や理想を書き出していく作業をしていて、私はあることに気づきました。
それは、私の過去の大切なことを思い出す内容のほとんどが、ネガティブな内容だということ。
わたしは、ネガティブな内容のそれらを大切なことだと思って、大切にしまっておいていた、ということです。
書きながら、あの時は本当にムカついたわー、とか、本当にあの人ヤバかったよね、とか、私よくやってこれたな、と思ったりしながら、
でも、それは『私のもの』ではないことにも気づけました。
そして、子どもの頃に唯一あったポジティブな思い出がありました。
それは、東北地方へ家族とキャンプ場をしに行った際、たまたま地元の子ども会的な人たちと出会い、キャンプファイヤーと肝試しに誘ってくれた時のこと。
肝試しでは全く知らない女の子3人くらいと、真ぁぁぁあっ暗なキャンプ場を頼りない電灯一個でフラフラ歩くわけです。しかも、途中で道を間違えたようで、怖くて怖くて仕方がなかったのを憶えています。
怖くてどこを歩いているのかわからないところ、小川らしき小さな水辺に、一面にびっしり蛍の群が現れたのです。
私たちはさっきまでの恐怖は一瞬にしてなくなり、うわぁ!!!すごい!!!という歓喜と感動でいっぱいになりました。
真っ暗な闇に現れた、小さな光。
それも小さな光が大きな光になっていて、あの時の光景は今でも鮮明に憶えています。
私はその体験を思い出した時、心がウルッとして、涙が溢れそうになっているのに気づきました。
人は闇の中で光を見つけると、ホッと安心して、光を目指そうとするんだ。
光を見ることで、わたしたちは存在し続けられる希望をみる。
わたしは、心の光でありたい。そう思った。
心はいつもわたしと一緒にいる。
暗闇で何もわからなくても、
隣に人がいても、いなくても、
必ず、心はわたしと共にいる。
どんな時もわたしと共にいる。
だけど、わたしと一番身近にいる心は、混沌とした状況であっても、どんなに融合し合っているものからでも、隔てることができるもの。
心なんてなければ、こんなこと思わないのに。
心なんてなければ、もっと話は早いのに。
心なんてなければ、傷つかなくていいのに。
(サードインパクトの意味がこの時、そういうことなのか、、、とジーンとしました)
でも、神様は、宇宙は、魂は、なぜか私たちに、心、つまり『感じること』を与えたのだ。
心を与えたことで、世界というスクリーンにいろんな景色を映し出した。
そして、私たちはそれによってまた心をつかうのであった。
心を与え、感じることをし続ける、今現在。
心が全てを分断させる。
心が正反対だったものをも繋ぎ合わせたりもする。
心が全てを赦したりもする。
そして、さらに、心の在り方1つで現実というスクリーン映像が変わるのだ。
すごくない???
『違いをつけているもの』は、そうやって、いつもわたしと共にいる。
人は「あの時のことは許さない」というけど、心を与えた側からしたら、それがまた何かにつながっていくのを、ただただ、みていくのだろう。
私も今日まで「あの時のこと」を"大切なもの"として持っていたので、今日があり、この気づきもある。
まったく、なんてシナリオだろう。
それがまた『意識』にも続いているので、すべて観られてもいる。
わたしたちのその先に何があるかなんて、ぶっちゃけわからない。
ただ、『心の進化』をどのように更新していくかが、カギなんだろうな。。。
それを知ったら、日常の暮らしからすべてにつながっている。
ふだん、心にどんなことを話かけていますか?
ときめくことですか?
ワクワクすることですか?
ムカつくことですか?
イライラすることですか?
その心が全てにつながっているとしたら?
その心が全てから遮断するものだったとしたら?
もしも、私たちをつくっているものと、つながっているとしたら?
わたしはこれからも、心をみていこう。
そしてさらに、日頃から、宇宙の外側にいる、ビーカーの外側にいる人に聞いてみないとな。
ビーカー論に関しては(許可が降りたら)別記事で書きますね。
今日はライブセミナーの後に、十分に肉体をつかってストレッチしてから、絵を描きました。
今日は『わたしの心』を召喚。
私の心は今日はこんな感じらしい。
カワイイやつめ。
ちなみに、左下付近の白いのは、私の汗で禿げました笑。
汗入りですw
絵を描くと汗だくなんですよ〰、毎回︎!
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