きらめく季節に…
23歳になった。今年こそは流石に歳取らないでくれと祈っていたら歳を取っていた。まあ、23歳ってまだ「歳を取る」という言い方もそぐわない気がするけれど、そこは目を瞑ってください。
今は留年休学フリーターとして生活している。日を跨いだ瞬間もバイト中だった。ちょっと休憩取って「おめでとう」ってメッセージに感謝を伝えて、一本だけタバコを吸い、廃棄する食品と返品する新聞の登録作業に戻った。味気ない。二十三回もやると慣れを通り越して、飽きてくる。その癖ソワソワしてしまう。歳を取るのものもダサいし、歳取るたびにソワソワするのもダサい。ダサさに包まれている。優しさに包まれたい。
二十三歳。もう二十代も中盤に差し掛かってきた。地元の同級生は新卒社会人になっていた。大学の同期は院進したり、やはり新卒社会人になったりしている。先輩たちは大体社会人をしている。してない人もいるけれど。そういう人見ると安心する。こういう麻薬みたいな安心したくないのに。
でも、就活をする後輩のツイートを見て現実に引き戻される。やめてくれ、あんなに遊んどいて就活までやってるってっ…それってズルじゃん!器用じゃん!すげぇじゃん、カッケっす…
置いていかないでくれ。まだまだ、みんなでぬるま湯に浸っていようや。そう言いたいのにそんなこと言わせてくれない。みんな、お先にと言わんばかりにさっと去っていく。冷水浴びせられたような気分。
夏休みよさようなら 僕の少年よさようなら
そんな言葉を連ねて寺山修司は青年、成人、あるいは健やかな肉体を持つ自身の誕生を五月に詠った。
自分は夏休みとも少年とも別れることができないまま、また歳を重ねた。五月の美しさが今は憎い。今年の五月は美しいと言えるか悩むが、でも五月は十二ヶ月の中で最も美しくなりうるという感覚は揺るがない。寺山修司のせいで。
寺山修司と言えば競馬に造詣が深いことでも有名な人物だ。
自分は最近競馬にハマりだして、しっかり金を失っている。毎度、後悔をする。今日だって、先週、先々週と競馬に金を入れてなかったら、いつもよりほんのちょっと良いご飯を食べたりすることくらいできたはずだが、それができてない。なんともバカバカしい限りだ。
競馬は面白い。色々と理由をつけて金を賭けてはいるが、結局最後はその馬を信じるしかない。そう、信じることしかできない。それが良いことなのだ。競馬は信じるという行為をこれだけ真っ直ぐにできる。馬という言葉を交わすことができない生き物を信じるのだから不思議なものだ。
金を担保にすることで信じやすくなっている。ニセモノだらけの世の中で、馬を信じる気持ち、これに関しては間違いなく本物だ。信じられなきゃ損をするし。
多くの人が誤解をするが、競馬に入れ込む人間は全員が儲けることを目的にしていない。お金を担保にして、信じるという行為の正統性を得ているのだ。キャバクラに行く人間が全員助平なだけではなく、他者とコミュニケーションをする権利をお金を払って得ようとするのと同じだ。
まあ、結局は信じたいし、儲けたいけれど。信じる者は救われるし、信じる者は儲けもする。
誕生日の話をしたかったのに競馬の話に熱が入った。ここ数年で酒煙草麻雀競馬を覚えてしまった。このまま行くと十年後くらいにはビッグなジョッキでウイスキーがぶ飲みして、タール100mgくらいある葉巻スパスパしながら、雑居ビルの雀荘で荒れたレースの文句言ってる。
ちょっとなってみたいかもしれない、そういう感じ。
ともかく歳を取りました。また一年生き延びるぞ。えいえいおー。
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