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昼食を買いに外出したら大怪我して一ヶ月経つまでの話 ②手術からリハビリ完了まで

昼食を買いに出ただけなのに階段から落ちてそこそこな怪我をした話の続きである。一ヶ月どころか半年は経った。面倒なのでタイトルは変更しない。
備忘録のため無駄に長い。こまかいことも書いてある。
外科手術は大体この流れで行われると思うし、高額医療費についてやジェルネイルのくだりとか、役に立つような立たないようなことも書いた。
あくまで私が2019年に体験したこと、覚えていることにすぎないので、その点御留意願いたい。

さて、落下直後妙なところで不自然に内側へ曲がった右腕に「単純骨折だといいなあ」と私は思っていた。複雑骨折だと治りが悪いからである。
そしてそんなに痛くはなかった。漫画でよくある「骨がいった」的なセリフを口にして戦闘を続けるキャラはあながちファンタジーでもないかもしれない。実際、衝撃はあるが「ああ、折れたな」と思ったぐらいで。
それよりもばっくり割れてどくどく血が溢れた右目上の方がもっとずっと痛みが強かった。しかしERでイケメン主治医はあっさり言った「バキバキに折れているので右手は手術が必要」と。残念である。
私は手術後まで自分の右腕の骨がどうなっていたのか、知らずにいた。
主治医はレントゲンを見せてくれたのだが、なんせ眼鏡がない私は視力0.03しかない。よく見えなかったのだ。
メガネをかけて見た私の骨折写真は痛々しいものだった。
橈骨上部は粉々になった上に、肩に向かって上下に大きく十字の亀裂が入り、丁寧にしっかり折れていた。尺骨もぼっきり。
どんなに素人でも、すぐには治らないことがわかるというぐらいに立派な骨折というか粉砕した骨だったもの、でしかなかった。
いやしかしこの右手の犠牲によって私の頭蓋骨と脳は守られたのだ、と思うことにしている。どう考えたって脳挫傷で頭蓋骨を開くより、右手が折れてた方がマシである。右手は犠牲になったのだ…どの指も動いたのでこれについてはあまり関心がなかった。

急遽入院したその夜、頭を強く打っていたため眠るのが怖いと怯えていた私だったが、なんとか数時間ほど眠ることができた。
ひっきりなしに聞こえてくるICUの電子音や話し声に目を覚ましながらではあったが、やはり入院させてもらってよかった。貧血がひどく、普通の速度で動くことができない。顔は相変わらず真っ白で真っ青、どこにも力がうまく入れられなかった。お手洗いに立つにも一苦労である。病院内にいる方が安心できた。あけて朝、病院食を完食し、ほぼ二日ほとんど物を食べてなかった私の空腹はようやく満たされた。

幸い、その日は友達Aが仕事終わりに迎えに来てくれることになり、私は1日充電の切れかかったiPhoneと過ごした。全身打撲の痛みと、右目上の裂傷による痛みが強かった。脳に損傷はなかったが、強く額をぶつけているためか頭痛も酷かった。朝になって視界のピントがずれていることに気がついた。
左部分はまともに見えるが、右部分が微妙に上にずれてものが二重に見える。恐ろしかった。眼球に問題がないとすると視覚異常の原因は脳である可能性が高いからだ。事故直後は脳内出血がなくても後から起こる場合もある。翌週検査となった。

弟が言うように、妹夫婦のお世話になるとしたら私自身の自宅からは遠方だが地元の病院へかかった方が彼らにとって便利は良いだろう、とは思ったが結論、救急車で運ばれた総合病院で手術を受けることに決めた。転院を繰り返す体力はないと思っての判断であるがこれは正しかったと思う。
夕方には仕事を終わらせた友人Aが迎えにきてくれた。友人Aは顔の半分を包帯で覆われた悲惨な顔の私を見て絶句したが、気をつけて運転しながら妹夫婦宅へ送り届けてくれた。総合病院では緊急以外の手術は木曜と決まっているため、再入院は数日後だったが「その状態で一人にできない」と妹夫婦から言われていたため、ありがたくその申し出にしたがって数日、妹夫婦の家にお世話になることになった。

妹夫婦宅ではすでに「なおちゃん(家族にはこう呼ばれている)はけっこうな怪我をした」と言うことが周知されていたらしく、私の愛する姪っ子甥っ子は「大丈夫?」と言う割に糸が飛び出ている白紫の顔面の私を見て大して驚きもしなかった。妹が床に散らばるレゴを見ては「なおちゃん次こけたら死ぬからね!?お片付けしなさい!!」と言っていたのがおかしかった。
いやたぶんもう(当分)死なない。これで当分の厄は受けただろう、2018年もろくな年じゃなかったし。

末っ子(未就学児童)は私の顔の傷口をまじまじと見て「痛いかったね…」と聞いたあと「よしよし」とギプスの上からそっと撫でてくれた。
うん、痛かったよ。今度こそ死ぬのかなと思ったよ。お前がこんな怪我をすることは一生ありませんように。
姪っ子長女は私の面倒をつきっきりで見てくれた。
普段はほとんどなんの手伝いもしないぐうたらであるが、今回は実に甲斐甲斐しく私の世話をやいてくれた。目のよく見えない私の手をひいて歩いてくれ、この歳で姪っ子に手を引いてもらうはめになるとはなあと思ったものである。至れり尽くせりで髪を洗ってもらい、乾かしてもらい、食べたらごろごろ寝ているだけの日々を送った。三角巾で吊った右手のおかげで寝るのも大変、起き上がるのも大変。腕が一本使えないだけでこんなに大変なのか、と痛感した。しかし、食い意地だけは衰えないのが幸い?だった私、スプーンとフォークを渡されて左手で食事をすることを余儀なくされた。最初はうまく食べられず、服にこぼしては妹に叱られ、ついに長女がタオルをエプロンよろしく私の首に巻いてくれることになった。「赤ちゃんエプロン」と呼ばれ、ちょっとした屈辱である。しかし「仕方ないでしょ。洗濯物が増えるから」と妹に一蹴されて終わった。しょんぼり。
「あれとっとけばよかった」と妹は言っていた、子供用プラスチックの食事用スタイ。裾のところが受け皿になっていて、食べ物が床にこぼれないようになっている作りだ。取ってなくてよかった。赤ちゃんよろしくタオルを首に巻き、ぎこちなく左手でご飯を食べる私を写真に収め、家族がみな笑っていたのでまあ良いかと思った。

入院の日がやってきた。
弟が連れて行ってくれたが妹はどうしても仕事でこられなかった。
手術日だけはきてくれることとなっていたが、これもいろいろあって無理になってしまった。大家族の主婦は多忙である。そもそも、初めから一人での入院手術を希望していたのに全身麻酔をする場合は家族が付き添いにつくことがその病院で決まりになっているらしく、この確認にかなりの時間を要した。結論「全て執刀医に任せる」という委任状を書いて私は一人で手術を受けることとなった。だから最初からそう言ってるじゃないですか、という気持ちになってしまった。家族のいない人は一体どうやって手術を受けるのだろう。これがすごく疑問である。

麻酔医のところで実に2、3時間待たされうんざりし、『話が長くてめんどくさい』という顔をしている私の代わりに弟が真面目に聞いてくれた。本当にうちの弟はいいやつです。全身麻酔って大変なことらしい。かなり強めの「こんなことが起こる可能性がある」という事例をきかされ、意識の混濁は怖いなとぼんやり思った。そして主治医に緊急オペが入ったため、次に6時間待つはめになった。弟よ、本当に申し訳ない。

一週間ごろごろ過ごしたおかげかこの頃、顔のゾンビ度はずいぶん下がっていた。内出血の紫色がひいたのでただの「右目の上から黒い糸がぴょんぴょん出ている人」に昇格?である。目も通常サイズに戻り、視覚異常は治っていた。看護師さん、主治医よ何度も「せっかくきれいな顔なのに(傷がついてしまった)」って言ってくれてありがとう。パーツの配置が綺麗?とかかもしれないが容姿を褒められるのは嬉しいんだなと思った、人生であまりない機会である。「本当に形成かからなくていいですか?」と聞かれたが私は特に気にしておらず、右目から鼻にかけてばっくり割れた傷跡については形成手術をしないことにした。今もぱっと見にはわからないがよく見れば右目上からの傷跡が見える。右目上を縫ってくれたのはERの毒舌女医だったが「細い糸で縫ってあるし目立たないようにしてくれたのだと思う」と主治医が言っていた。だから別にいいか、と。生きてありがたいことに視力にも問題がない(以前と同じなので悪いのは悪い)。割れたメガネが刺さる場所があと1cmずれていたらおそらく失明していただろう、と眼科では言われた。ピントのズレは眼窩底骨折による一時的なものである。と診察された。
いろんな意味で私は運が良かったのだ。

主治医との確認事項が終わると、これでTV見られるからとTVカードを買ってくれ、コンビニで要るものはあるかと買ってくれ、じゃあ帰るからねと、半日以上時間を奪われた弟は文句ひとつ言わず去っていった。
いろんな意味で妹夫婦のうちには足を向けて寝られないお姉ちゃん、本当にみなさまのおかげで生きています。
ところが入院1日め、明日は手術だというのにちょっとした問題が起こった。
実は、怪我をする1日前に手のジェルネイルを新しくした私、入院前説明で「ジェルネイルは取っておいてください」と説明を受けたのだがどうにも店に行くことはできないし、自力で外すのも大変なので主治医にそう伝えたところ「酸素確認できるように左右一つだけ取ってくれてたらいい」と返答されたので左右一本ずつジェルネイルをとって来ていた。
入院前日の前日友人Bがきて四苦八苦して取ってくれたのだ。彼女は「まったくあんたはほんとにもう!!」と呆れながら見舞いもかねてお菓子を持ってやってきて、しばらく空ける部屋を片付け、荷物をつめてくれ、ジェルネイルをおとしてくれた。ジェルネイルはUVレジンと同じで、普通のネイルリムーバーではもちろん落ちない。削って溶剤でふやかして取るのだが、プロの腕と設備がなければかなり至難の技である。たまたま私は自宅でオフできるセットを持っていたのでなんとかなったが、市販でジェルネイルを落とすキットを揃えるのは難しい。それを全然専門外の友人Bがやってくれ、一安心。と思っていたら。

「全部です。足もです」
と入院当日オペ看(手術室専門の看護師さん)に怒り気味に言われ、私は小鹿のように震えた。ご、ごめんなさい。
だって主治医は「べつにいいよ」っていったもん…とは言えず、仕方なく前日とは別の友人Cに急遽依頼して病室で二時間かけてそれを取ってもらった。仕事終わりに急に呼び出したのに「まあ生きててよかったよ」と友人Cはやってきて、これまた文句ひとつ言わずそれをやり遂げてくれた。
オペ看のみなさんはいつもこのやりとりをやらされて怒り心頭なのかもしれない、申し訳ないなと思った。酸素確認がどれぐらい大切か、よくわかっていなかった。確かに落ち着くまでは毎回酸素を測られた。(足はしてなかったので足から)ジェルネイルをするみなさん、手術のためには全指ジェルネイルを外してください。幸い睫毛は自前なので何もする必要がなかったが、睫毛のエクステンションも外す必要があるそうです。覚えておいてね、医療従事者に無駄なストレスをあたえてはいけない…私のように。それ以来、ジェルネイルはしていない。ちょっとしたトラウマになってしまった。

病院は何事も早い。
夕食は6時には出る。朝ごはんからもう早いのだが(7時)昼食も11時にはきていたと思う。最近の病院食の美味しさを実感した。
私は「中食」を指示されており、だいたい成人女性に必要なカロリーがカバーされたメニューとなっていた。ちゃんとあたたかなものはあたたかく、冷たいものは冷たい料理が提供される。このころになると私はすっかり左手で食事をすることに慣れて箸も使えるようになった。
友人家族に「これは死なないわ」と笑われたが私も同意見である。
薄味だがちゃんと美味しく、依頼すればスペシャルメニューを食べることもできた。(たしか通常料金に数百円上乗せ)私は好奇心から一度だけ天丼を頼んだのだが通常の量の二倍ぐらいの量が来てしまい、四苦八苦して腹に収めた。男性にも足りる量で作ってあるそうで、美味しかったがかなり多かった。とにかくやることがない私は一食ごとについてきたメニューを全て保管して写真を撮ったりした。

特に強い痛みを感じる箇所はなく(顔面は抑えれば痛かったが、右腕は固定されているため痛くなかった)足腰なんともない私はひょいひょい一人で歩けるしシャワー浴びられるし髪も一人で洗って乾かせるので看護師さんに「手がかからない」と褒められ?た。
手術当日は朝から絶食だが、気が向かなければ1日ぐらい何も食べなくても平気な私にはなんともなかった。全身麻酔は怖いなと思いながら入院初日の夜を過ごしたのだった。

手術当日、一人私はその時を待っていた。家族の付き添いがないというと看護師さんは心配してくれたが、仕方ない。「じゃあいきましょう。車椅子のる?」と聞かれたので、ちょっとびっくりした。「いえ歩きます」とバスタオルを抱えた看護師さんと二人で世間話しつつ手術室へ向かった。のんびりしたものである。手術には二枚はバスタオルを用意してください。と言われるので用意しておくと良いでしょう。どこの病院でもだいたいそうらしい。術時、背中に引くんだそうだ。

手術室は大変興味深かった。
テレビで見るようなまさに「手術室」だった。近年新しくなったというその総合病院の手術室の設備は見るからに最新でピカピカに輝いていた。機械物が大好きな私はもう大きなモニターその他に釘づけである。モニターには手術を受ける私のデータが記載されていた。バイタルなどが大きく表示されるようになっている。オペ看護師さんたちはきびきびといかにも有能で「寒くない?」などと聞いてくれた。しかも手術台はふかふかだった。エアベッドになっているようで、暖かい。腹部手術ではなかったからかもしれないが、ふかふかで暖かだった。血液を失えば体温が下がる。少しでも体温を逃さないようにと私はぐるぐるタオルケットで包まれた。
そうこうしていると、麻酔医がやってきた。
ベテランの風格がある女医さんであった。これまたてきぱきと麻酔がかかる経緯やどんな薬を入れていくのかなどと説明してくれる。
「わかりましたよろしくお願いします」とだけいった。
こちとらまな板の上の鯉である。プロの仕事を信じるしかない。
「まずブロック注射をします。すごく痛いです。針が折れる恐れがあるので暴れないでください」ブロック注射。話には聞いていたが初体験である。どれだけ痛いのかと覚悟していたが、これが全く痛くなかった。
プロすげえ。などと感嘆しながら「ぜんぜん痛くないです」とお伝えする。
体を抑える看護師さんは二人もいたが、私は微動だにせずすんだ。
後から主治医から聞いたところによると「この病院一番の凄腕にあたったんですよ」とのことで、納得。いろいろ顔にマスクさせられたりしてる間に「これから麻酔を入れて行きます」と説明される。薬が肩から患部に流れていくのがわかる。だんだんと感覚がなくなっていく。腕がしびれて膨らんでいくような。そしてドラマでよく聞く「これからだんだん眠くなります」と言われてから2秒も立たず「あ、もうねむいで…」す。を言えたかどうか、私は意識を手放した。

とんとん、肩を叩かれて私はばちっと目を開けた。「終わりましたよ」と声をかけられる。あれ?私さっき寝ましたけど。と思いはしたが、大画面のバイタルに表示された血圧の数値はかなり低くなっており、二時間半が立っていた。主治医はもういなかった。
「お部屋に帰りますね」
今度はベッドに乗せられたままで移動する。意識の混濁は一切なかった。
よく寝た感覚がある。右腕はもう固定されており、痛みもない。
あー終わった終わった。と思いながら部屋に帰るが、絶食は続く。数時間後ようやくもらえたジュースと菓子パンをもそもそ食べる。この時初めて「麻酔が効いている」ということを自覚した。右手がずるりとベッドに落ちた時、全く感覚がなかったからである。右肩の続きに何かついてる、と言う感覚。左手で持ち上げて見るとそれは気持ちの悪い肉の塊でしかなかった。ぶよぶよしていて冷たくて作り物みたいだった。
自分の体の部位で感覚がないところがあるこの恐怖はなかなか感じることができないと思う。

主治医は言った。
「術後は1日目がくっそ痛いですけど二日目以降痛くないです」(主治医は若い男の先生です)いやもうこの二週間、だいたいの「痛い」は経験したと思う。出産と麻酔なしで右手の骨を折る、右目の上をばっくり切開するとどっちが痛いだろう?と経産婦の友人にきいてみたところ「たぶんあなたの方が痛いと思う…昨今の出産は部分麻酔とかする。ただし陣痛は痛いと言うより長くてつらい」そうで、へー。と思った。個人差が大きい話ではある。

8時間は麻酔が効いているから痛くない。ということを実感した。それを超えるごろから手術跡は痛み出した。右肩から下の感覚が戻ってくる。騙されていた脳から薬が引いてしまったあとは痛みしかなかった。これもまたこれまでとは種類の違う痛みで、怪我は「焼けるような」激しい痛みだが、手術跡の痛みは「圧迫されるような」痛みだった。右手を床に置いてその上に細い板を置かれ、その上に2、3人が乗って踏みしだいてくる。そんな嫌な痛みである。大変に痛い。
処方されていた痛み止めを飲むが全く効かない。脂汗が出てくる。夜中、病院のゆるい空調の室温でじっとり汗をかきながら私は三時間ほどごろごろしながら黙って耐えた。何をしていても痛いので、眠ることができない。
どうにも痛いので座薬を処方してもらうがこれもほとんど効かない。
右手の上では相変わらず何者かがコサックダンスを踊っている。いや別のところでやってくれよ。見回りに来た看護師さんは暗闇の中で疲弊し切ってベッドに腰掛ける私に「痛み止めを注射しよう」と提案してくれた。
それでようやく少し眠ることができた。

朝が来ると、痛みは嘘のようになくなっていた。へー、主治医嘘つかない。
朝ごはんをもりもりいただき、日課の院内コンビニに出かけて水とドリップコーヒーを買う。1日に2リットル程度水を飲む私の日課である。
痛みが引いてしまうと、あとは「ただ拘束された健康な人」と変わらないので、時間を持て余した。ちょうど18年ぶりの新刊!と話題になっていた「十二国記」を五冊ほど持ち込んでいたのだが、二日ほどで読み切ってしまった。弟が買ってくれたTVカードでちょっとだけテレビを見た。10年はテレビのない生活をしていたので新鮮である。しかしテレビを見るという習慣がないためすぐに飽きてしまった。TVカードは冷蔵庫の使用料も払うことができたため無駄にはならなかった。

余裕が出てくると周囲の人に目を向けるようになった。外科病棟は実に98%老人で溢れかえっていた。私より若い入院患者は一人もいなかった。私自身もう若者ではないが主治医は「ここではぴちぴちの部類です」と私を笑わせた。私の二倍は生きている人たちがほとんどだった。
高齢化社会だなあ、と思ったが、この歳でこけて怪我している方がおかしいんだと気づいて恥じた。同室は広々とした四人部屋で、おばあちゃんが三人と私だった。回転が早い病室で、そのような人が集められていたのかもしれなかった。ころころと入院患者は変わったが、いずれも高齢女性だった。
いつごろだったかは忘れたが、その病室にあきらかに毛色の違うおばあちゃんが運ばれてきた。彼女はいつも眠っているようだったが、夜中でも昼までも急に叫びだし、意味不明の言葉をえんえんとけっこうな大音量で呟いていた。一番ナゾだったのは「あやの、ごう…!!」という呟きだった。おばあちゃんなんでそこチョイス??とあまりのウルトラCな主張に思わず笑ってしまった。何度聞いてもそれだった。ファンだったのかな。永遠に理由は謎である。私は普段静かな自宅で過ごしているためそういった喧噪には耐久性が低いのだが、自分の意思ではなさそうな彼女の呟きには腹を立てることはなかった。それよりもそんな彼女にいちいち「うるさい!!」などと言い返す隣のベッドの別のおばあちゃんにいらっとしたりした。 本人に言ってどうにかなるようなことじゃない。確かに快適に過ごすことは患者の権利ではあるが、訴えるべきは別のところであろうと思った。私はそれらのことを耳にしないように昼間はヘッドホンで音楽をきき、夜は耳栓をして眠ることにした。病院内の売店にはたいがい用意されているので、騒音が気になる人は購入をお勧めする。見知らぬ他人と同じ部屋に閉じ込められて生活するのはなかなか難しいことだから。叫ぶおばあちゃんは会話も難しそうだった。それでも看護師さんはケアのたびに彼女に優しく声をかけていた。
朝、看護師さんが彼女のベッドの窓側カーテンを半分開けていく。「今日もいい天気だよ」と声をかけながら。午後には強い日差しがそのままおばあちゃんに当たっていた。私はそっとそれを閉める役になった。何かあったら看護師さんにお知らせしなくてはと妙な使命感を持った。幸い、変わったことは何もなかったけれど。

手術の翌日にはこれまた韓流スターみたいなすらりとしたイケメンのリハビリ技師がやってきた。そう、術後すぐにリハビリは開始されるのである。昨今は養生の時間はとらないのが普通だそうだ。
しかしこの病院はイケメンでないと採用しないんだろうか?と真面目に友人に聞いたところ「吊り橋効果じゃね?」と返ってきたのだがちょっと納得していない。いやもう危機は脱してるし。
リハビリはリハビリルームで行われる場合もあるし、私のように技師が患者を訪問する場合もあるらしい。すっぴんパジャマのおばさんがベッドでごろごろしつつイケメンにひたすら右手を揉まれるシュールな絵面である。
「とにかく動かしてください」と技師は涼やかに言った。
「動かすと手術跡が破裂したりしないんですか?」と素朴な疑問を聞いてみたところ彼は笑いながら「ないですね。聞いたことないです」と答えてくれた。たった二週間の拘束で私の指は見事に動かなくなっていた。感覚も痛覚もあるが意志がうまく伝わらない。手術後の私の右手は左手の二倍ほどに腫れあがり、熱を持っており常に保冷剤で冷やしておく必要があった。
これは大変もどかしい。こんなに動かなくなるとは思ってもみなかった。折れた直後には指は普通に曲がったのに。
「握ってみてください」と言われ力を入れてみるも、全く動かない。わずかにぴくりと小指が動いただけだった。ひとのからだは簡単に機能を忘れてしまうらしい。「これとこれをやってください」とリハビリのプリントをもらった。やることがないので、とにかく言われたことを毎日きちんとやった、なんなら多めに。指を一本ずつ折ってゆく、にぎって開くを繰り返す、など単純なものだったが実行するのは至難の技だった。早く右手が戻ってきて欲しかった。自分の体で思い通りにならないことがあることが我慢ならない気もした。最初の数週間が勝負だ、と技師は言った。ここを頑張ればあとが楽になると。クールな技師はリハビリにくるたびに淡々と何かしら褒めてくれ、やっぱりこういう職業の人は人のあしらいがうまいのかなと感じた。
「回復が早いです。毎日ちゃんとメニューやってるんですね」と言われたので「ひまなので…早く良くなりたいし」と答えたところ「痛みを感じてそこでやめてしまう人は多いです。高齢になってくるとなかなか他人の言うことも受け入れられないし…」と言葉を濁していた。
リハビリに来なくなってしまう人もいると言う。体の機能回復だけではなく、メンタルが大きく関わってくる。本当に大変な仕事なのだ。努力の甲斐あってリハビリは順調に進み、僅かながら指が動くようになってきた。一番初めに要求された「小指と親指をくっつける」動作ができるようになった
時はとても嬉しかった。総合病院では通院のリハビリを行なっていないため、退院後は近所の病院に転院することになった。

怪我をしてから痛いことが怖くないのか、という質問を何度か受けたが、結局そこを乗り越えなければ治らないのならやるしかない。怖いとか怖くないとかは考えたことがなかった。自分自身は痛みにすごく弱いと思っていて、少々の頭痛、不調でも薬を飲むし、無理をしないことを心がけて生きているし、大変なビビリ屋である。だから出産などはできる気がしない。
しかし今回の件で自分の意思の強さみたいなものに気づいた、というか案外自分が理性の人だと言うことがわかった。意思で痛みをねじ伏せることができる、と言うのは興味深い発見だった。救急隊員に対しても救急医に対しても極めて冷静かつ丁寧な態度をとることができた。そのことにほっとした。
どんな状況下であっても、取り乱して良い結果になることはない。転倒後すぐに救急車を呼べたことも良かった。思考ができればなんとかなる。意識を失わない程度の怪我でよかった。

イケメン主治医は多忙だろうに毎日顔を見にきてくれた。だいたい遅い時間のことが多かった、早くから開いている病院なのに。
「元気なので毎日こなくて大丈夫ですよ」「早く帰って寝てください」と言うとやっぱりちょっと笑っていたが、ほぼ毎日きてくれた。30秒ぐらいしか居ないのだが、わざわざやってきてくれる。近況を尋ね、帰っていく。信用できる医者に当たったのは幸運だった。回診は昨今あまり行われないらしく、私が滞在した間は病室に他の医者がやってくることはあまりなかった。
看護師さんも様々だ。
だがどの人もプロフェッショナルである。検温とか血圧、酸素量を測りにきてはこまごまと声をかけてくれる。いつでも他人をケアする声かけを行ってくれるのだ。「大丈夫?」「かわったことはない?」それが彼女彼らの仕事なのである。なんと凄まじい「仕事」であろうか。
中にはとびきり若い看護師さんも居て、私がパジャマがわりに着ていた某アイドルのツアーグッズTシャツを見て、アイドルの話をしてくれた人もいた。
いつでも朗らかにフラットに、患者のことを見てくれている。これがどんなに大変なことかは、働く人にはわかると思う。自分のメンタルをコントロールすることだって大変なことなのに。なんでも「自分でやります」と体を拭いてもらうこともなかった私だが、初回だけ髪を洗ってもらった。
これなら一人でできそうだと思って、次回からは自分で行った。可能なら少しでも看護師さんの手間を減らさなければと思った。常にぱたぱたと小走りで看護師さんは仕事をしている。体調を尋ね、計測し、正しく処置したり、おむつを変えたりしている。人の命を預かるとはこう言うことか、と思う。そこには私の得意な「分析」や「計算」だけでは成り立たない業務がある。
医療従事者の気持ちと知識がそれを成り立たせている。私にはとうていできる気がしない。医療従事者を心から尊敬している。
彼らの労働環境を少しでもよくする働きかけがしたいと思う。
入院した総合病院での労働環境は悪いとは思えないが、昨今のコロナ禍における医療従事者の扱いはけして看過できるものではないと感じている。

わずか一週間の入院の間に実にいろんな人が見舞いに来てくれた。
入院前日ネイルを落としに来てくれた友人Bは何か欲しいものはないかと尋ねてくれ、フェイスタオルと水を頼んだら2リットルボトルの水を残りの入院生活分持ってきてくれた。タオル、と準備物に書かれていたがものぐさの私はバスタオルを二枚持ってきただけで、フェイスタオルを持っていなかった。別に要らないと思っていたが、腫れを冷やすための保冷剤を包んだり、リハビリ時に下に引いたりとフェイスタオルは必要なものだった。
彼女らは夫婦で来てくれたが、インフルエンザが猛威を奮い始めていたので、早々に帰っていった。
片手しか使えないので寝転んでスマホが見られないなあ、と友人Dに「スマホスタンドが欲しい」と言ったところ、見舞いにそれを持って来てくれた。彼は実によく気がつく人でそのほか「乾燥するから」とポンプ式のハンドクリームやら、除菌ウエットティッシュなど実にこまごましたものまで届けてくれた。元同僚や上司たちが果物や好物のプリンを持って訪れてくれ、院内のカフェでコーヒーを奢ってくれた。話し相手に飢えていたので大変嬉しかった。差し入れのぶどうは食べやすいように小分けしてパッケージされていた。ありがたさに涙が出た。
こども食堂のボランティア団体からも何人か来てくださった。私が何より欲しかった暇つぶしにと本を数冊、そしてチョコレートをもらった。
他者に生かされていることを改めて実感した。
私がへこたれながらも強く生きていけるのは家族が友人が、いろんな人が私を愛してくれているからだ。

いよいよ退院という日に主治医は急なオペが入ったとかで顔を見せてくれなかった。もともと彼は救急医であるので仕方ない。次の検診の予約はもうとってあったので、問題はなかった。代わりにやってきた医師は淡々と口頭で退院に関する説明を行い、抜糸を行なってくれた。この医師は先日急遽入院した隣のおばさんの主治医で、すごく素っ気ないが腕がいいという外科医だった。(うわさで聞く限り)私が退院する二日前ぐらいにやってきた隣のおばさんは不幸なことに交通事故に遭って入院してきた。
歩くことがままならない彼女のために私はコンビニにお使いに行ったり、話し相手になったりした。リハビリが終わったら会おう!と約束したのに、コロナ禍のせいで未だ果たせていないが、いつか実行するつもりである。
抜糸の際、初めて私は自分の傷口をまじまじ見た。グロテスクである。すっぱり10cmほど赤黒い切れこみが入っている。骨折がひどかったため、大きめのプレートを入れなくてはならず、傷口が大きくなってしまったそうだ。
腫れた傷口が黒い糸で所々とめてあるだけの簡素なそれは今にも開きそうだった。しかし傷口を頂点に、左右から肉が盛り上がっている。まだ傷口でしかなかったが、一週間前に切り開かれたそこはすでに皮で覆われ、つながっていた。生きている限り体は治るんだなあと思った。
抜糸はとくに痛みもなく済んだ。包帯だけを巻いて、ようやくシーネから解放された腕は少し軽く感じた。痛みは無くなっていたが、右手と比べてまだ腫れていた。支払い手続きが済んだらもう帰っていいですよと言われた。

支払いについて、実は乗り換えのために自己でかけていた保険を解約したばっかりだった私は手術入院費に戦々恐々していたのだが、入院前に「限度額適用認定証」は入手していた。これは「高額医療となることが予想される場合、加入している保険団体に申し出ると所得額によってひと月に支払う医療費が制限される」という制度である。所得額によるため一律ではないが、MAXだいたい8万円前後となる。例えば一月に100万円手術入院に費用がかかったとしてもその証明書を会計時に提出すれば(だいたい事前に持っているかと尋ねてもらえる)支払いは8万円前後になる、と言うものだ。
適用されるのは医療費のみであるため差額ベッド代などは実費となる。詳細はこちらをご覧ください。なぜかリンク貼れないので直貼り。
全国健康保険協会
https://www.kyoukaikenpo.or.jp/g3/cat310/sb3020/r151/
いったん支払って後から返金されるのは「高額療養費精度」であるが、会計時に大きな金額を支払わなくてはならないし、病院側としても限度額適用認定証で一度で精算された方が手続きに手間がかからないのではなかろうか、これは個人的推察に過ぎないけれども。申請は先述のとおり加入している保険団体に申請する。国民保険なら区役所に行けばすぐに発行してくれる。
これは本当にありがたく素晴らしい制度であり、日本の保険制度は無くしてはならないと思う。
人の命には多かれ少なかれ値段がつくが、その格差を埋める手立てとして大きな役割を果たしていると思う。私の手術、入院費用は初回の救急対応を含めだいたい20万円ほどだったが、これを大幅に制限した金額で支払うことができた。大抵の場合、入院時レクチャーで教えてくれると思うので不調を抱えているが医療費がネックで病院へ行けない、という人は早く病院へ行ってほしい。ちゃんと「誰でも救える」ような制度がある、今のところは。

お迎えに来てくれるはずの妹夫婦がなかなか来ず、聞けば渋滞につかまってしまったと言う。15時以降は別の患者が入るというベッドで「退院までは居てもいいよ」と看護師さんに言われたのでまたごろごろして過ごした。ここ二週間、ごろごろしたり腕を折ったり切られたり揉まれしかしていないことがおかしかった。ようやく昼過ぎに妹夫婦がやってきてくれ、ほっとした。家に帰れる。もう静かなところで眠れる。
仲良くなった隣のおばさんに声をかけそこを後にした。荷物は妹夫婦が持ってくれたが左手は無事だからなんか持つ、と主張したところじゃあこれを持ちなさいとジェルネイルを剥がすために使ったボウルを持たされた。(お湯でネイル部分を温めるために持ってきていた)退院になぜかピンクのボウルを一つ持った私はナースステーションに立ち寄って「あの、帰ります。お世話になりました」とお礼を言った。するとそこにいた看護師さんがわらわら出てきて「今日退院かーよかったね」「もうこけないでね」と見送ってくれた。はい、気をつけます。本当にありがとうございました。

再び妹夫婦のうちにごやっかいになることになったが、もう「いかに早く右手を回復させるか」についてしか考えておらず、「とにかく使うことです」というリハビリ技師の言葉を信じて家中の掃除をすることにした。おりしも年末である。文字通り大掃除を大展開し、若干めんどくさがっている家族で手分けして掃除を行った。私が普段住んでいるところではないが、行けば「おかえり」と言ってくれる人たちが暮らしているところである。やるなら完璧にという私の監修の元「恐ろしくて手をつけられなかった」というところまで綺麗に磨き上げた。暮れから正月にかけての二週間ほどは自分一人でリハビリにも勤しんだ。使うこと、それからリハビリメニューをこなすこと、それらをまじめにやっていると、徐々に指が動くようになってきた。一週間ほどでPCを打つ速度は戻った。正月を過ぎると「本当に大丈夫なのか」と心配する家族を後に自宅に戻った。愛すべき妹夫婦家族はぼんやりしている私に対してかなり過保護なのだ。いわく「大丈夫じゃないことが多い」からだそうだが、それは否定できない。いつもありがとう。

ここからは近所の病院にリハビリ通院となった。こちらの病院でも良いリハビリ技師にあたり、順調に回復していったが、初めは「一週間に三回」のリハビリを計画され仕方がないが財布からはお金がどんどん消えて行った。
「初めが肝心です。ここをがんばりましょう」と総合病院で言われたことと同じことを言われた。指はうごくようになってきたが、まだ手首が曲がるようにはなっていなかった。つまり、手をついて身を起こす、と言うようなことはできなかった。「右手をテーブルについて肩を上げていき、負荷をかける動作を1日2分やってください」と言われ、先の遠さにめまいがしたが私はそれをコツコツやった。通常90度曲がるはずが、転院直後の私の右手は20度も曲がらなかった。「握力は二の次、可動域を取り戻しましょう」ということで毎回ぐいぐい右手を曲げさせられた。これにも痛みが伴う。硬くなった筋肉や筋に圧力をかけられる痛みである。今では90度ちゃんと右手首が曲がるようになったし、右手をついて体を起こすこともできる。違和感があるが、痛みはない。荷物を持ったり掃除をする私を家族友人はおっかなびっくり見ていたが「20kgぐらいまでなら持ち上げてもいいです」とリハビリ技師に言われていた私はそれを信じてがしがし右手を使った。

手首がある程度自由に動くようになったら次は「握力の回復」である。最初にした計測はたしか16だった。成人女性の握力はだいたい20前後だそうなので、まあ普通と言えば普通に入らないことはない。しかし。
「怪我していない手の80%まで回復することを目指す」のが一般的と言うことで計測した左手の握力はなんと37もあった。
「すごいです、何かスポーツをされていますか」
いえ全く何も。
これはつまり、16の握力を30まで回復させなければならないと言うことで、私はおかしいやらめんどくさいやらで笑うしかなかった。握力測定など、高校以来じゃないかと思う。そのころは確か普通に20前後だった。なぜ私の握力が強くなったかについては謎である。たいして使っていないのに。あと私、腕力ほとんどない。ありそうな腕だけど。
術後から実に4月まで延々とリハビリは続いた。握れなかった指が握れるようになり、数週間経ったらペットボトルを開けられるようになった。回復の軌跡も興味深いものだった。人の体は面白い。怪我では人間なかなか死なないなと思った。修復機能が働いている間は再生速度を上回る怪我をしない限り治る。
たった二週間動かさなかった手を動かし、握力を回復させるためにこれだけの期間がかかった。めでたく右手の握力30超えを果たした私はお墨付きをもらい、リハビリを終了した。(だいたいのリハビリのタームは半年だそうだ)今では折れた右手は軽やかに動きなんでもすることができるが、文字を書くのが書きづらくなった。もどかしい気がする。それもまあ致し方ないことである。あれだけ粉々になったものが戻ってきてくれたのだからよしとしている。

死ぬかもしれないと思った時、恨み言は一つも浮かんでこなかったので私はわりと良い人生を送っている。真っ直ぐではないしだいぶ傾いているし、未来に希望の持てない人生ではあるが、私はこれからもこれまでどおり生きていく。多くを手に入れることはきっとないが、死ぬ時周りにありがとうを言って終われる人生の方が良い。心配かけた皆さん、助けに来てくれた皆さん、お世話になった皆さんみんなありがとう。
まだ生きて良いみたいなので、これからもどうぞよろしくお願いします。もらったものをちょっとでも返せるように努力します。
ああ、生きててよかった。


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