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五七五七七

ほぼ日の万葉集講座では、講義のなかで歌を詠む機会はそれほどなかった。また、自分で歌を詠むような講座であるとも思っていなかった。ところが、2019年3月16日のピーター・マクミラン先生の時に「では、富士山の絵を描いて、歌を添えてみましょう」ということになった。そんな急に言われても、とは思ったが

黄昏て なお燃え続く火の山に 毎日落つる炎の玉

というのを作った。富士山は休火山なので、まだ噴火する可能性がある。つまり、まだ燃え続けている。自分が暮らしている東京から見ると、夕日は富士山の向こうに沈む。そういうことを詠んだだけのことだ。詠んだ、といっても歌にはなっていないと思う。

さらに同年同月26日の俵万智先生の講義を前にして、「恋の歌を作ってくること」という宿題が出た。それで作ったのがこの歌だ。

じゃまたね 笑顔残して別れたが 君の名はなき同窓名簿

中学までは普通の公立で、当然に共学だったのだが、高校は男子校で、前に書いたように勉強以外のことをしない3年間を過ごした。この時期の3年間というのは大きかったようで、大学に入ってしばらくは女子と何を話してよいのか皆目わからなかった。そういうなかで、10人程度でゼミ形式で行われる選択科目があって、そこで女子と一緒になってしまった。男子が圧倒的に多い学部であるにもかかわらず、その科目では女子がひとりいたのである。話をしないわけにもいかず、たまたまその人は池袋に住んでいて、帰る方向が同じだったので、その科目のあるときは一緒に電車に乗ることになった。そうなれば自然にある程度は親しくなるものだ。何かの折、彼女がケーキを焼いてくれた。しかし、なんだかとても恥ずかしくて、それを素直に受け取ることができず、目を合わさないようにして、さっさと一人で帰ってしまったことがある。その後は同じ授業を履修することもなく、学内で顔を見かければ挨拶をする程度の関係でしかなかった。

その大学では卒業後25年目と50年目に全学規模の同窓会が開催される。25周年のとき、名簿が配られた。その彼女の欄の備考に「物故」とあった。顔見知り程度ではあったけれど、目が一瞬その文字に釘付けになった。「恋」というのではないのかもしれないが、そのことを詠んだのである。

彼女はワンゲルの同好会に所属していた。山の事故にでも遭ったのか、とか、病気だったのか、とか、その後も折に触れて彼女のことが思い出された。夢に出てきたこともある。その夢のことはブログにも書いた。死んだ人はいい。いつまでも記憶の中にある姿のままなのだ。

それで歌のほうだが、この歌は講義のなかで俵先生に「なかなかおもしろい」と取り上げていただいた。そのことにすっかり気を良くし、万葉集講座の卒業課題にも同じ歌を少し手直しして提出した。そればかりではなく、別の通信教育「はじめての短歌」でも課題として提出。その時は、このような形にした。

じゃあまたねいつものように響けども君の名のなき同窓名簿

これに対する「講師からのメッセージ」は以下のようなものだった。

いつものように「じゃあまたね」と言い合って別れたけれど、その「またね」の約束の何と不確実なこと、人生の深みに立ちどまった一首ですね。「じゃあまたね」は「」で括りましょう。心に沁みる一首です。(佐藤孝子先生)

歌の背後にどれほど多くの想いがあるのか、ということが大事なことのように思われる。そして、「想い」というのは自分と誰かとの関係の中からしか生まれないとも思う。

ちなみに、万葉集講座では卒業制作として受講生が「恋の歌」を一首提出ということになった。講座の中で詠んだものも可とされたので私は宿題の歌をそのまま提出した。その卒業制作は「ほぼ日」のサイトに公開されている。




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