雀之四季
雀には雀の丈の夏の空
(すずめには すずめのたけの なつのそら)
季語は説明するまでもない。断っておくが、この句はパクリだ。第21回NHK全国俳句大会(2020年1月26日)の大賞句の一つがこの句。
雀には雀の丈の秋の空 (大阪 柿谷有史)
この句の「秋」を別の季節に置き換えても句としては成り立つ。しかし、それが語る世界はどうだろうか。
雀には雀の丈の冬の空
雀には雀の丈の春の空
それぞれの句から何を感じるかは感じる側の自由なのだが、四つの句の世界の違いは季節の違いだけではないように、私には感じられる。雀が飛び交うような昼間の空は、例えば抜けるような青空なら、季節が違っても視覚的には同じようなものかもしれない。違う時間を同時に生きることはできないので、比較することは不可能なのだが、映像的には同じであるとしても、感じ方は違うだろう。夏の炎天下、あっついなぁ、と空を見上げたら雀が飛んでいた。真冬の晴れ間、ふと見上げると雀が飛んでいた。青い空に雀という映像は同じでも、その印象は同じではあるまい。
他所の言葉のことは知らないが、日本語の難しいところというか、微妙なところというのは、言葉の奥行きのようなものが伸び縮みするところにあるように思う。同じ言葉が、それについての各自の経験の差異によって、表面上の意味以上の世界を暗示する。その背後の世界を楽しむのが、歌や句であったり、落語のような話芸であったりする。言葉は自分自身が手足を動かし、汗を流し、さまざまな人と関わり、多種多様な経験を蓄積していかないことには、理解は深まらない。
NHKの大賞句を詠んだ柿谷氏は視覚障害者だ。秋の空に雀が歌い舞い、そこに空の広がりを感じるわけだが、柿谷氏の感じている世界と視覚に障害のない人が感じるそれとは同じではあるまい。その違いはいくら言葉を尽くしたところで説明などできないだろう。また、言葉を尽くせば尽くすほど本質から遠ざかってしまうかもしれない。氏が詠む「雀には雀の丈の秋の空」の世界をどれだけ自分が共有できているのか想像もできないのだが、何かしら通じているものはあるだろう。そこに歌や俳句の面白さがあると思う。
ちなみに雀が登場する落語と言ってすぐに思いつくのは『抜け雀』と『鷺とり』だ。桂枝雀という名前に「雀」のある噺家もいた。落語が時々「ブーム」になるものの、いわゆる古典落語が高座に上がりにくくなるのは、噺の中に登場する文物が現在の生活から失われてしまったということもあるだろうが、それ以前に人と人との関わりが時代とともに変容していることが大きいと思う。人情の中身が違ってしまっているのである。そこをうまく翻案して今の観客に提示するのが芸なのだろうが、人の存在の「個」の部分が肥大化していくなかで、情そのものが伝わりにくくなっている気がする。
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