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回を重ねる

「はじめての短歌」第4回課題では二首提出。

目の前に現れるのは残りかす雲のむこうで夏至が過ぎ往く

人一人生きる時間の儚さを束ねてみても確かにならず

夏至の頃に詠んだ。日照時間が一年で一番長いのが夏至で、6月20日頃だ。この日を境に日は短くなるのだが、夏の暑さは夏至を過ぎてから本格化する。はじめの歌は、この時間差を詠んだつもりなのである。今、この場で起こっていること、つまり夏の暑さは、それ以前に日照時間が長くなって熱が蓄積された結果である。目の前のことは、それ以前に生起したり仕組まれたりしたことの名残りで、気づいた時には本家本元は過ぎ去っている。自分が認識するのは残り滓で、手遅れの中を生きている。そんなことを考えた。

我が家にはエアコンが無い。夏の暑さがどうなるのか、夏至の頃は大変気をもむのである。2018年の暑さには参った。ついに耐えかねて8月はじめに近所の家電量販店にエアコンを見に行った。大きな看板があって「取り付けまで10日間待ち」と書いてあった。10日待つなら取り付けた頃には暑さが盛りを過ぎているのではないか、と思って、結局買わなかった。そういう2018年を思えば、去年も今年も楽勝だった。でも来年の夏は、、、憂いは尽きないのである。

この第4回の課題を提出する頃、梅原猛の『水底の歌』を読んでいた。歴史の本だが、「…ことは確かである」とか「…は間違いない」という記述がひんぱんに登場する。確かめようのないことを、そんなに断言してしまって大丈夫なのかと、ハラハラしながら読んだ。そんな元気な梅原先生も亡くなってしまわれたが、自分という一番確かであるはずの存在でさえ、その一生は儚い。大勢の人の儚い時間を集めたのが歴史であるとすれば、それもまた儚いなぁ、と思ったのである。二番目の歌はそんなことを詠んだつもりだ。

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