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月例落選 短歌編 2023年1月号

恒例「月例落選」シリーズ。『角川短歌』1月号への投函は10月13日。投稿の控えを読み直して思ったのだが、今回はいつもに増して暗い。改めて、自分は余程ネクラなんだと妙に感心した。

題詠の兼題は「気」。

気配だけ記号が伝える滅亡後サステナブルな世界はひとつ

記号だけあれば事足る暮らしにて人の気配も絶えた街角

気を吐いて吸いもしないでただ吐いて誰も気づかず死んでいく人

印象として人は滅亡へ向かって直走っている気がする。本当にそうなったとすると、後にはそういうものがいた気配だけが残るのではないかと思うのである。例えば、風力発電の風車がただ回っている姿であるとか、山肌を覆うメガソーラーが陽の光を受けて照り輝いている姿である。使う当てのないエネルギーがそこで淡々と生成され続けている。

そんなサステナブルなエネルギーのおかげで、世界中至る所に生き残っているサーバーやパソコンの記憶素子に膨大なデータ(記号)が取り残されている。生身の人はいなくなっても、なんだかんだで蓄積されたデータだけが生き残っている。金融機関の口座情報やクレジットカードの口座情報と利用履歴、小売業者が抱える顧客情報、その他利用頻度の多い情報は本来の目的を超えて通信網の中に溢れ返っているはずだ。年金や住民票・戸籍といった相対的に利用頻度が小さくとも網羅性の大きな公的機関の情報も当然残っているだろう。そしてSNSのゴミ情報。たぶん、人は最期の際まで、それを今ここで言ってどうする、というようなしょうもないことを呟き続ける気がする。そして、人類が滅亡した後も、データだけが行ったり来たりしているかもしれない。結局、人はデータの塊で、魂はデータでできているのかもしれない。

人の意見を聞かないタイプの人がいる。聞かないわけではなく、自分の世界観を脅かすようなものに対して極度に敏感ということなのだろう。ただ傍目には気を吐くだけで吸わないように見える。吐いて吸う、つまり呼吸をしないと生きていられないのだが、吐き続けていないと生きていられないと思い込んでいる。その思い込みで自らを抹殺している。

雑詠は以下の4首。頭から3首は10月初旬に奈良に遊びに出かけた時のことがネタになっている。

未成線高架のアーチ白い波行方途絶えてトビがただ舞う

未成線アーチが並んだ高架線突然終わる誰かの暮らし

暮らしの香枯れ果て尽きてただ静か保存のための古き街並み

人生もゴミの袋もウイルスも同じ記号で市場経済

毎年10月初旬に奈良に出かける。家人が同じ場所をリピートするのを嫌がるので、奈良とその周辺で毎回どこか新しい行き先を考えないといけない。今回は五條にした。五條には榮山寺という古刹があり、そこの八角堂と梵鐘が国宝に指定されている。御本尊の薬師如来坐像は重要文化財の指定を受けている。他にいくつもの重文を所蔵している。さらにこの寺の旧蔵品で現在は国立歴史民俗博物館の所蔵となっている古文書もある。こう書くとさぞかし立派な寺であろうと思われるだろう。訪れてみて驚いた。無住だ。拝観料は境内入り口のブリキの小さな料金箱に入れるようになっている。全く手入れがされていないわけではないようだが、建物も敷地もかなり荒れている。その枯れた感じに愕然とした。

八角堂(国宝)
本堂と石灯籠(重文)

五條では榮山寺のほかに、金剛寺、新町通り、生蓮寺、大澤寺を訪れた。金剛寺は唐招提寺の住職の隠居寺として昭和初期まで使われていたそうだ。生蓮寺は嵯峨天皇の皇后の安産を祈念して建立された。大澤寺は約1300年前、修験道の開祖役小角えんのおずぬが開基した密教霊場。そんな日本の歴史の生き証人のような古寺が当たり前に点在している。地元じゃそんなことを気に留める人もいないのだろうが、関東で生まれ育った身には萌え萌えだ。

しかし、五條で何よりも印象深かったのは未成線跡だ。国鉄の和歌山線五条駅と紀勢本線新宮駅を結ぶ予定であった五新線は1939年に着工された。その後、戦争で工事が中断され、1957年に工事が再開されたものの、既に建設計画立案当時とは地域の経済状況が大きく変化し、新線の意義が失われていた。バス専用線として1963年に一部開業したものの、国鉄民営化に伴い建設計画そのものが廃止されてしまう。バス路線も2014年に廃止となった。最近の鉄道の高架橋は直線的だが、昭和前半の鉄道土木には優美なアーチ橋があったりする。その高架橋が新町通り(旧伊勢街道)の外れに見事に残っているのである。

新町通りの案内所の駐車場にレンタカーを停めて付近を歩いていたら、案内所の裏手を流れる吉野川の土手の上をトビが舞っていた。訪れたのが月曜だったので、新町通りの商店は悉く定休だった。しかし、営業日に来たとしても似たような風景が広がっているのかもしれない。よく古い街には景観保存地区のようなエリアが設けられているのだが、それで何かが生まれたり広がったりするものなのだろうか。そこでどのような営みがあって、人々の暮らしが維持展開されているのかという生活の現実がなければ、ただのハリボテだろう。尤も、ハリボテのような暮らしこそが我々の現実なのかもしれないのだが。

まぁ、一服。と言っても店はなく、看板だけがぶら下がっている。
丸い方がいい。建築も人間も。

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