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1985

先日、宮島さんのnoteのことを書くときに生きてきた時代というものを俯瞰しようと思って、どのような出来事があったのかざっと見た。生きるということについては、自分で稼ぐようになってからが本番という気がする。しかし、そこに至る下地は個々の事情もさることながら、やはり時代の影響は無視できないだろう。

自分の世代(単にイメージとして1960年代前半生まれ)の価値観を形成する時代の象徴的な出来事を独断と偏見で並べるとこんな感じになる。

1960年 安保闘争
1961年 ベルリンの壁
1962年 日本の米消費量のピーク
1963年 ケネディ米大統領暗殺
1964年 東京オリンピック
1965年 中国文化大革命
1966年 ビートルズ来日
1967年 第三次中東戦争
1968年 日本のGNP世界2位
1969年 アポロ11号有人月面着陸
1970年 万国博覧会
1971年 変動相場制
1972年 ローマクラブ『成長の限界』
1973年 第四次中東戦争・オイルショック
1974年 フォード米大統領、現職大統領として初来日
1975年 第一回先進国首脳会議
1976年 ベトナム統一
1977年 中国文化大革命終結
1978年 サダト・エジプト大統領とベギン・イスラエル首相がノーベル平和賞受賞
1979年 イギリスでサッチャー政権誕生(先進国初の女性首相)
1980年 天然痘根絶
1981年 IBM PC発表
1982年 ソニーが世界初のCDプレーヤー「CDP-101」発売
1983年 大韓航空機撃墜事件
1984年 英国と中国、香港返還合意文書に調印 1997年7月1日返還決定
1985年 G5プラザ合意

山手線の大塚駅は谷地に盛土をした上にホームがある。池袋を出ると線路は下って切り通しを進み、車窓からは法面しか見えない。線路が谷地を渡る格好になって不意に視界が開けたところが大塚駅だ。大塚駅を出るとまた切り通しになって、そのまま巣鴨に着く。昭和20 (1945) 年の夏、その大塚駅のホームから焼け残った新宿伊勢丹の建物が見えたという。それくらいに東京は一面の焼け野原だったということだ。私が生まれたのは昭和37 (1962) 年。その焼け野原が粗末な建物で埋まった頃だ。昭和39 (1964) 年に東京オリンピックが開催されたが、その時初めて来日した人々が衝撃を受けたのは、東京の貧相な街並だったという。大慌てで競技場や高速道路を作ったというのに。同年、東海道新幹線が開業したが、建設資金は世界銀行からの借款に負うところが大きい。焼け野原から20年、世界中から借金をしてなんとか体裁を整えるのがやっとだった。貧乏だった。

それでも日本は敗戦の年から復興が始まったからまだよいが、近隣はその後も紛争続きで物入りで余裕がなかっただろう。背景にあるのは第二次世界大戦中から燻っていた連合国間での軋轢だ。中国は日本との戦争が終わった後も国共内戦が続き、ようやく1949年に中華人民共和国が成立、朝鮮半島では1948年に朝鮮戦争が勃発、1953年に休戦したものの今もって正式な終戦は迎えていない。インドシナの20世紀後半は複雑すぎでどう書いてよいのかわからない。その近隣の混乱が日本の復興にはプラスになった側面があることは否定できまい。

大学生の時にインドシナ難民に衣服を送るボランティア活動に参加したことがある。日本全国から寄せられた衣料品を相模原にある米軍総合補給廠に集め、整理してコンテナに積み込み東南アジアに点在する難民キャンプのどこかに送るという流れになっていた。その相模原の米軍基地にある倉庫での荷物整理を何度か手伝った。確か大学1年か2年だったので、1981年か82年だ。既にサイゴン陥落から5年程度が経ち、補給廠の広大な敷地はほぼ更地で、そこに古い巨大な倉庫が一つ二つあるだけだった。ベトナム戦争最盛期には戦車や重火器類がいっぱいに並んでいたそうだ。その寄付された衣類はさまざまで、企業の未使用の制服、クリーニングされて綺麗に畳まれた衣類、というような感心する状態のものもある一方で、着古したというか、もはや「衣料品」とは呼べない状態のものもあった。「善意」と言っても、その内容は実にさまざまであることがよくわかる風景だった。まだまだ心は貧しいままという人が少なくなかったということでもある。

今、少子化などと喧しく言われているが、実際に人口が自然減少に転じたのは2005年だ。一方、日本の米消費量のピークは1962年だった。つまり私が生まれた年から食卓の風景が大きく変化している。食卓の風景というのは物流の象徴でもあるから、その変化の中で育ったことになる。確かに、貧しい家庭であるにもかかわらず、食卓に上がる食材の種類は年を追うごとに増えていった記憶がある。特に輸入食材が増え、それまでに見たことがない果物、例えばグレープフルーツとかキーウイに驚いた。

おそらくその背景には、日本の産業構成で農林水産業の比率が顕著に低下したことと、その裏腹に工業やサービス業の比率が上昇したことが関係あるだろう。また、外国為替が固定相場制から変動相場制に移行しているのは、国力のバランスに変動が生じて固定相場を維持できなくなったこと、ドルの金兌換が停止され、通貨の意味合いが大きく変わったことがある。

端的には生活の風景が大きく変化した。家の中にある家電製品がどんどん増え、またその性能がどんどん高度化するのである。テレビは白黒からカラーになり、さらに薄型になる。洗濯機は洗うだけで脱水まではできかなかったのが、今は乾燥まで一台でこなす。エアコンは富裕層だけのものだったのがデフォルトになる(我が家には依然として存在していないが実家には1974年に導入)。数え上げればキリがないくらい、生活の風景が自分の生き物としての成長と軌を一にするかのように変化した。

パソコンは、日本での普及のきっかけとなるNECのPC98シリーズの登場が1982年だ。1985年に就職した頃、まだ「パーソナル」にはなっていなくて、職場の島に1台か2台という感じで、それを操作できる人も限られていた。携帯電話はショルダーバッグのようなもので20kgくらいの重量があって「携帯」は困難な代物だった。

1986年に国債の先物取引が開始されるが、そこで想定されている10年物国債は利子が6%だ。つまり、当時の金利がそういう水準だったということだ。年利6%というのは、複利で運用すると投資金額が10年で倍になる勘定である。100万円を運用すると10年後に200万円で返ってくるのである。今はゼロ金利なので、100万円は何年経っても100万円のままだ。これでは預貯金をしようとか金を貯めようとかいう気にはならないのではないか。もちろん、物価も同じだけ変化する理屈なので実質的には金利によって未来の貨幣価値が変わるものではない。しかし名目の数字の変化は人の勘定よりも感情の方に案外大きく影響を与えるような気もする。この金利の感覚も人間の発想の世代間格差を生んでいるのではないだろうか。

言えることは、それまでできなかったことが簡単にできるようになる、という生活体験上の変化と、自分の身体の成長が重なっていて、成長と共に自分自身が何事かを「できる」ようになることを世代として経験していることだ。これは我々世代を語る上でとても大きな要素だと思う。

もちろん、公害問題や地政学上の変化といった宜しくないこともある。また、世界中を巻き込んだと言っても過言ではなかった戦争が終わり、そこからの復興が一段落すると、当然にその先の経済成長は鈍化する。資源の枯渇も気になりだす。1970年代の石油危機の頃は「あと40年で石油は枯渇する」と言われていた記憶がある。それが危機と捉えられて、例えばローマクラブの『成長の限界』といった問題意識も芽生える。しかし、はっきりとした経済成長を体験し、いくつもの自然災害を乗り越え、「40年で枯渇する」はずの資源問題もなんとかやり過ごすという「できる」経験の中で成長した世代には、何事も解決できると無邪気に信じているところもある気がする。

まだまだ書きたいことはあるのだが、際限がないのでここまでにする。


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