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池谷和信 『人間にとってスイカとは何か カラハリ狩猟民と考える』 臨川書店

初めて野生のスイカというものを目にしたのは1984年3月、オーストラリアを旅行したときのことだ。アリススプリングスだったか、エアーズロックだったか、内陸の砂漠の道を歩いていて、道端にソフトボール大の縞柄スイカがなっているのを見つけた。けっこうたくさんゴロゴロしていて、ひとつ割ってみたら中は白かった。特に誰かが採取したりするようなものではなく、ただ雑草のように自生しているとどこかで聞いた。

本書で取り上げられているカラハリ狩猟民はスイカを水源として生きてきた。人間の身体の約7割が水だというし、よく「水分補給をこまめにしましょう」などということを聞く。生命維持の要は食糧よりも水らしい。食糧にしても農産物の栽培には水が不可欠だ。人間の集落は水源と密接に関わり、歴史を彩る文明に大河はつきものだ。では、水はどれくらい必要なのだろうか?カラハリ狩猟民は1日2個のスイカで過ごすそうだ。本書関連のセミナーに出席したことがあって、そこで観た動画では日本で言うところの「小玉」くらいの大きさだった。

「足るを知る」とか「身の程」といった言葉もあるが、要はどのような世界観を持って生きていて、その世界観において何をどの程度消費しどのような価値を生産するのか、ということに尽きるのだろう。ぐだぐだとどうでもいいことを考えながら闇雲に消費して「健康」だの「アンチエイジング」などとほざきながら齢を重ねて寿命が尽きて死んでいくことが幸福だという人が多い気がする。なんかオカシイんじゃないかと思うのだが、世の中はそういう無意味な消費を前提に成り立っている。カラハリの人たちも政府の定住化政策で狩猟採集をやめて賃労働に精を出すようになって、たぶん妙なことに陥っているのではないかと、本書には書かれていないが、私は案じている。

誰がどこで暮らしているということをはっきりとさせて、誰にどれだけの所得があるかを数値化し、数値化された所得が人間の承認欲求とリンクするような仕掛けを作ると、為政者にとっては仕事がやりやすい。「為政者」といっても特定個人ではなく、そういう社会であったほうが都合の良い立場の人たちの層というか集団というかモヤモヤフワフワとしたものだ。支配管理する側の世界観と個人のそれとは必ずしも整合しないはずなのに、それが「普通」とか「当たり前」と思い込んでいる自分の外にある世界観に自分を合わせようとするところに個人の不幸の根源があると私は睨んでいる。数値化可視化されたものだけが「合理的」という、なんの「理」があるのかわからない「常識」のなかで人類は確実に滅亡へ向かっているように思えてならないのである。

1日スイカ2個で暮らしていけるということを実践できる社会が存在するということに私は本当の豊かさと何か救いのようなものを感じる。尤も、自分がそうやって暮らしたいとも思わないし、暮らしていけるとも思わないのだが。

本稿は2016年8月31日に他のブログサイトに記した記事に若干の編集を加えて再録したもの。

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