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万葉集講座

そういうわけで、ほぼ日の学校の万葉集講座を受講した。期間は2018年11月から2019年5月までと、2019年8月の補講。さらに第3回の岡野先生の講義については予習会というものもあった。講義のタイトルと講師だけ並べると以下のようになる。全てに出席した。これには校外学習も奈良で開催されたが、それには参加しなかった。団体行動というものが性に合わないのである。

第1回 「万葉集とシェイクスピア」
上野誠さん 河合祥一郎さん
第2回「万葉集に出会う」
上野誠さん
第3回「大伴家の文学伝統」
岡野弘彦さん
第4回「山上憶良のまなざし」
永田和宏さん
第5回「『百人一首』を英詩訳して」
ピーター・ジェイ・マクミランさん
第6回「万葉びとの恋」
俵万智さん
第7回「万葉の食、万葉の宴」
小泉武夫さん
第8回「人はなぜ歌を詠むのか」
永田和宏さん
第9回「『昭和万葉集』に思う」
梯久美子さん
第10回「『万葉集』を人生の伴にする」
上野誠さん
第9回補講「作家・島尾敏雄とミホ夫妻の愛の軌跡」
梯久美子さん

講師名がさん付けなのは、講座のウェッブサイト上の表記による。どの回もそれぞれに興味深く、毎回楽しみにしていた。『万葉集』は読んだことがないし、この後に岩波文庫のボックスを買ったが、まだ読んでいない。歌集だの句集だのを手にするようになったのは最近のことで、高校の古文の教科書に出てくるいくつかの歌しか知らない。

私が通った高校は、都内の某私立高校だが、当時は先生方の多くが都立高校を定年で退職された方々で、校長経験者も多かった。都立高校どころか陸軍の学校で英語を教えていたという先生もおられた。要するにお爺さんばかりだった。高校1年の時の古文の先生は大変声の大きなお爺さんで、どういうわけか知らないが、
「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」
という万葉集に収められている歌を読む先生の声がいまだに頭から離れない。こんなふうな書き方をすると、忘れてしまいたいことのように思われるかもしれないが、そういうわけではない。ちなみに高校2年と3年の古文の先生は大学を出たばかりの先生で、たまに送られてくる同窓会誌によると今でもお勤めのようだ。

高校生の時は勉強しかしなかった。1年から3年まで駿台の高校生クラスにも通い、家でも勉強漬けだった。今から思えば、両親が中卒であることに対して何か思うところがあったのかもしれないし、単にマジメだったというだけのことかもしれない。しかし、今になってつくづく思うのは、そういうのはアホだ。学校の勉強というものは正解があることばかりだ。正解があるというのは、理屈を追えば自ずと到達できることなのである。理屈というのは考えればわかることだ。つまり、考えてわかることは教えたり教えられたりする必要はないのである。ましてやそういうことを「勉強」する必要はないはずだ。そういうものを教えてもらったり、勉強しないとわからないというのは馬鹿だからだ。学校で勉強することをありがたがるという時点で、その人の人間としてのサイズがはっきりしているのである。

人にはそれぞれに身の丈というものがある。晩年を迎えて己れの身の丈がなんとなく了解されて、がっかりしないわけではないが、ほっとしたところもある。たまたま最近読んだ森繁久彌の詩にこんなのがある。

人は何もわからなく生まれ
人は何もわからなく生き
人は何かわかったような顔で死ぬ

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