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一寸之虫

角川短歌2月号(投稿締切:2020年11月15日)の題詠は「虫」だ。これにも投稿したが、こちらの方が角川歌壇よりもハードルが高い印象がある。歌壇の方に落選しているのだから題詠に選ばれるはずはないのだが、こんな歌を詠んだ。

飛んでいる虫しか食わぬ燕(つばくろ)の餌になりたい飛んでるしるしに

虫ケラと馬鹿にされても虫ケラはしぶとく生きるものかげのなか

飛べるのにつつましやかな日々暮らし虫の歴史は人より長い

時分時になると我が家の周りは燕がたくさんやって来る。私の動線上では駅前のマンションの1階商店の軒下に営巣するのが一組か二組あるだけなのだが、近所のイトーヨーカ堂周辺はかなり賑やかなことになる。燕は敢えて人間の生活圏に営巣することで安全を確保するという生存戦略をとるので、そういうことになる。また、燕以外にも鳥が多い。多摩川が近い所為で、いわゆる環境多様性が豊からしく、今まで暮らしたどこよりも生き物の種類が多い気がする。

先日、何かで燕が飛んでいる虫しか食べないというようなことを知った。贅沢といえば贅沢だが、それくらいじゃないと渡鳥は務まらないだろう。かつて国鉄の最速特急に「燕」という列車があった。その昔、日本の最重要幹線である東海道本線の特急であり、名門中の名門列車だ。そのような列車の名称に採用されるくらい、燕という鳥が飛翔する姿は美しい。近所で燕が飛ぶ姿を見つけると、思わず立ち止まって見入ってしまう。

燕に食われるということは、生きているということだ。私はもう社会的な寿命を終えようとしているが、もし私が虫なら燕は私を食うだろうか、と思うのである。食われれば良し、食われなければ、やっぱりそうか、とそれも良し。でも、どうせなら食われたいものだ。

『あと千回の晩飯』にこんなことが書いてある。

思うに人生は、夢や幻想がさめてゆく過程だといっていい。親は子に対して、子は親に対して、夫は妻に対して、妻は夫に対して。税金を払うときは国家に対して、死床にあるときは医者に対して。そして、自分は自分に対して。それでも大半の人間はふしぎに絶望しない。- 155頁、山田風太郎『あと千回の晩飯』朝日文庫

たぶん人は滅多なことでは絶望しないようにできている。

後の二首は、まぁ、どうでもよいだろう。

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