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いつから大隅?

こんにちわ、よんごひんご⭐︎くま です。

前回は、本家の本家にあると思われる系図の一部を妄想しました。
今回はちょっと寄り道して。南九州の国の成り立ちを調べてみたいと思います。

さて、古事記によると伊邪那岐と伊邪那美の二柱の神々によって大八島の国々が生み出されました。
九州(筑紫)島の国生みのシーンをを確認してみましょう。

筑紫島(つくしのしま)を生みたまふ。
此の島も亦、身一つにして面四つ有り。
面毎に名有り。
故、筑紫国(つくしのくに)を白日別(しらひわけ)と謂ひ、
豊国(とよのくに)を豊日別(とよひわけ)と謂ひ、
肥国(ひのくに)を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ひ、
熊曾国(くまそのくに)を建日別(たけひわけ)と謂ふ。

古事記より

生まれた当初は、筑紫国・豊国・肥国・熊曾国の4つの国で九州(筑紫島)が構成されていたことが分かります。
その後、7〜8世紀にかけて国が分割されていきます。
その変遷は以下の図のような感じです。
8世紀には、九つの国(州)になって、九州となってます。

昔の九州

さて、順を追って確認してみます。
7世紀の中頃(大化の改新:第38代天智天皇の頃)、
今の宮崎県・鹿児島県にまたがるエリアに豊国から分割する形で日向国が設置されます。
国名は、第12代景行天皇の一言
「この国は日の出の方を直に向いているなぁ」
が由来になっているそうです。

あれ? 熊曾国は・・・どこに行ったのでしょう?
景行天皇の熊襲・土蜘蛛征伐 もしくは、日本武尊の熊襲征討によって
熊曾国は消滅したとでもいうのでしょうか?
ちょっと熊襲の扱い、雑ではないですか?

そんな雑な扱いのためなのか
8世紀初頭に隼人の反乱が起きてしまいます。
この反乱を契機に、隼人大和化政策の一環として
唱更国(はやひとこく)が設置されます。
この唱更国が後の薩摩国になります。
『唱更』とは、辺境の守備につくことを意味するらしいですが、
隼人(はやひと:「犬のように吠える人」「隼のように早い人」を意味する)とは関係がないのでしょうか?
それともダブル(トリプル)ミーニングなのでしょうか?
ちなみに薩摩とは、物の端っこを意味する『つま』に、語彙を強める接頭語『さ』がついたものと言われてます。
『さ・つま』
現代風に言うと
『むっちゃ端っこの国』って名付けられたってことですか?
日向に対し、国名でも雑な扱いですね・・・

さて、薩摩国(唱更国)の設置から10年ほどして、日向国から分割される形で大隅国が設置されます。
薩摩(唱更)国と同じく、隼人の大和化政策の一環としての設置だったようです。
地形が弓のように大きく曲がっていることから、大隅と名付けられたと言いますが、「曲がった土地」を意味するのは「隈」なので、「隅」とはちょっと違う気もします。
やはりこっちも『すんごい隅っこの国』って意味でしょうか?
まぁ、中央にとっては薩摩も大隅も蛮人の住む辺境って感じなのでしょうが・・・

ちなみに、大隅国の設置は和銅6年(西暦713年)4月3日。
今から1310年前の出来事です。

その様な辺境の地に、ご先祖様は別の土地から来たのか?それとも、ず〜っと住んでいたのか?
次回からは、酒井さんをキーワードに調べてみようと思います。

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