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八代城、実は3つあった?(航史記者)

くまモン記者団の、航史記者(上天草市)です!

僕は少し前から戦国時代に興味を持ち始めたことをきっかけに、お城にも興味を持つようになりました。春から夏にかけて熊本県のお城や城跡めぐりをしているので、少しずつ記事にしていこうと思います。

今回は、八代城について紹介しようと思います。八代城跡には、5月と8月の2回行きました。5月に行ったときは、八代市立博物館「未来の森ミュージアム」に立ち寄って、八代城の城郭図(じょうかくず)、その当時の地図や模型、出土品を見学することができました。

しかし8月の時は、令和6年7月1日から令和8年3月まで改修工事のため休館中で、残念ながら見学できませんでした。

5月に見学したときの写真をいくつかシェアしますが、改修工事が終わったらみなさんもぜひ行ってみてください!

八代には歴史上「八代城」とよばれたお城が3つあります。南北朝・戦国期の古麓城(ふるふもとじょう)、小西行長が築城した麦島城、加藤・細川藩政期の八代城(松江城)の3つです。

元和(げんな)元年(1615年)に、江戸幕府は一国一城令(いっこくいちじょうれい)といって、1つの国にはお城は1つだけというルールを作りましたが、肥後国(いまの熊本県)は熊本城と麦島城の2城が特別に許可され、一国二城になりました。しかし元和5年(1619年)3月に大地震で崩れてしまって、元和8年(1622年)に3代目の八代城となる松江城が加藤正方によって築城されました。

寛永9年(1932年)に加藤氏に代わって細川三斎(細川忠興)が城主になり、三斎の死後から明治時代になるまで松井氏が城主でした。ちなみに細川三斎の妻は明智光秀の娘、細川ガラシャです。八代城からは、細川家の家紋である九曜紋(くようもん)と松井家の家紋である三ツ笹紋(みつざさもん)がデザインされた瓦が見つかっています。

八代城(松江城)は、石灰岩が使われた石垣があり、その色から白鷺城(しらさぎじょう)・白石城とも呼ばれます。

八代城は「回」の字型になった平地に築城した輪郭式平城(りんかくしきひらじろ)です。もし山城(やまじろ)だと山や丘の上にあるので、足が疲れて見学するのも大変なのです!

八代城跡には石垣とお堀だけが残っています。石垣には地元の石灰岩が使われていたり、野面積み(のづらづみ)、打ち込み接ぎ、算木積みが確認できたりと、これら石垣も見どころのひとつです。

本丸には4層地下1階の大天守と2層2階の小天守、7棟の櫓(やぐら)をはじめとする建物がありました。水堀(みずぼり)に囲まれていて、本丸入り口は枡形虎口(ますがたこぐち)という防ぎょ力にすぐれたつくりですが、実は一度も戦いには使われていません。

石垣の上にのぼって水堀をのぞき込むと、亀や魚が泳いでいるのが見えたり、ながめのいいところを散歩できるのが楽しかったです。八城城跡は、「続日本100名城」にもなっています。ぜひ行ってみてください!

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