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「沈黙の春」を思うベルリンの今日

※この記事は3月中旬に書いたものなので、情報は多少古くなっています。

朝目が覚める。

布団の中で、あれ、今日は週末だったかな?と一瞬考える。

いつもなら、通学や通勤の人たちの行き来で賑わう窓の外が、静まり返っている。

そうだった、昨日から、コロナウイルス対策のため、ついにベルリン中の学校が休校になり、会社が早めの春休みになったりして、人が外を出歩いていないのか、と思い出す。

週末の朝なら、平和だな、と思えるこの静けさも、世の中が目に見えないウイルスとの戦いのために、人間を隔離せざるを得ない状況になってしまった結果だと思うと、何とも言えない気分になる。

頭の中にふと、「沈黙の春」という言葉がよぎる。

1962年にレイチェル・カーソンによって書かれた『沈黙の春』は、環境汚染によって、虫が消え、鳥たちが消えた春の描写が有名な本だけれど、私はぼんやりと、そうか、環境汚染だけではなく、ウイルスという手もあったのか、と、人間の未来に立ちはだかる、新たに出現した壁の高さに、改めて気づかされた。

虫や鳥の声は聞こえても、人間の声の聞こえない春。

「ミツバチが絶滅すれば、4年後に人類は滅びる」と言ったとされるアインシュタインも、こんな未来を想像していただろうか。

ミツバチの羽音は聞こえるけれど、それを聞くことのできる人間のいない春。

ようやく、暗くて寒くて長い冬から解放され、ベルリンの街にも春らしい日差しがあふれ、例年なら公園や街中に、気の早い夏服の若者たちがあふれ、一年で一番きれいで心が躍る季節。

でも、通りは人影もまばらで、公園には、幼稚園が閉まって行き場のない子どもたちを遊ばせる、数組の家族の姿のみ。

トイレットペーパーや、パスタの棚がからっぽになって、閑散としたスーパー。

店員もやることがなさそうに、ぼんやりとした顔でカウンターに座っている、カフェやレストラン。

こんな光景を目にするのは、50年近く生きてきた人生の中でも初めてだし、想像したこともなかった。

唯一思いだすのは、9年前の東北地方太平洋沖地震の後の街の風景。

関東圏に住み、小さい子どももいた私は、多くの犠牲者の人々のニュースに衝撃を受け、余震におびえ、目に見えない放射能という得体のしれない物質と向き合わなければならず、右往左往していた。

それでも、人との行き来はできたし、子どもは学校に通えたし、行こうと思えばどこに出ていくことも制限されていなかった。

だけど、今回は状況が違う。

ベルリンはまだそれほどの規制はされていないけれど、近辺のヨーロッパの国々では、自由に外を歩くことすらできず、国境を超えることもできず、本当に、人々は分断されてしまったのだ。

ドイツも国境が閉鎖され、家族が別の国に行っていたまま、しばらく戻れなくなってしまった人もいる。

アジアの国で突如国境閉鎖が宣言され、仕事でベルリンに来ていた人が、出張を切り上げ、高い航空券を追加購入して慌てて帰っていったりもした。

運よくチケットが手に入り、それを払えるお金を持っている人はそんな風に帰国もできたけれど、そうでなければ出先の国に足止めされ、自分の国に戻ったあとも、2週間病院で隔離されたりするわけだ。

仕事どころの騒ぎじゃないし、ことごとく、そうやっていろんな予定がキャンセルや無期延期されたりして、周囲は一時大混乱していた。

そして今・・・

人々はちりぢりになり、仕事は見通しがつかず、在宅ワークに切り替えられ、職場すら「沈黙の春」の様相なのだ。

私自身はとりあえず、語学学校の仕事は急遽オンラインに切り替えられて、仕事が消滅することは避けられたけれど、こんな状況が長く続くと、生徒の中にも語学学習なんて言ってられない人たちも出てくるかもしれない。

失業・・・

そんな現実が自分の前に突き付けられる可能性を、覚悟しておかなくてはいけないのだろうか・・・

すでに倒産や、営業ができなくなってしまった店舗の被雇用社員がどうなっているのか、考えただけでも気が重くなる。

ベルリンには、日本から来た人が驚くくらい、街中にホームレスの人がいるんだけれど、近所のアパートの入り口に寝起きしている人たちや、スーパーのカートに家財道具を乗せて街を歩く家のない人たちの人生を考えた時、こんな不況による解雇なんかがきっかけで、屋根のない場所で寝起きしなくてはならなくなった人もいるのかな、と、改めて世の中の不条理みたいなものに思いを巡らせる。

自分を含め、住む家を失う人たちが、これ以上増えないことを願うばかりだ。

しかし本来、社会保障制度はある程度きっちりしているドイツだから、なんらかの方法で一時金などを得ることはできるはず。

ただ、そのための手続きや書類や、役所での永遠に続くような待ち時間のことを考えると・・・

離婚手続きや永住権の申請やらで、それを経験した私としては、二度と関わりたくない案件、それは役所への申請。

そういったことがどうか不必要であればいいけれど。

そしてこんな先のことばかりでなく、今進行中の生活に戻ってみれば、また別の問題が浮かび上がってくる。

今まさに、緊急を要するかもしれない医療体制、これがベルリン、なにかと微妙な状況のようなのだ。

コロナウイルスかどうかも分からないけれど、熱が出たという人と接触すれば、自分も他の人に感染の恐れがあるから、もちろん人と会うことを控えなければいけない。自宅で完全に監禁状態になる可能性がある。

実際、近しい人が2日前に発熱して、もしや・・・という事態になったので、この状況が自分の周囲で展開したのだ。(幸いにも、その知人は1日で熱が下がり、咳も出ず今は回復に向かっている)

そもそも、発熱しても受診してくれる病院を探すのさえ一苦労だったし、コロナウイルス検査の場所は、仮設のテントで何時間も待たされる・・という話も聞いたし、こんな状況だと、無症状の自分が感染しているかどうかだって、重症になるまで調べてはもらえないんじゃないかと思う。

そうなると、無症状で陽性の人との接触が、感染を広げるというのは、やはり避けられない状況なのかと思わざるを得ない。

社会保障制度はしっかりしているドイツも(書類と役所の問題は置いといて、ではあるけれど、)医療体制に関しては、正直、・・・ベルリンはかなり厳しい状況なんじゃないだろうか?

コロナウイルスとは関係ないけれど、プライべート保険に加入している人しか、最初から受け付けない病院も多く存在するし、通常、病院の予約をしようとしたら、1カ月や2カ月待たされるのは当たり前。

検査機関と病院が別々なため、やっと病院の予約ができても、検査予約にまた待たされ、そしてその検査結果を病院に戻すための予約で再び待たされる。

永遠に終わらないたらい回しのループの中で、症状が悪化していく人もいる。

私も数年前、ホームドクターでの一般検診かなにかで、ちょっと腎臓の検査したほうがいいかも、と言われ、検査までは行ったんだけれど、専門医に検査結果を戻す予約がまた何か月先とかいう有り様で、すっかり予約を忘れてそのままにしてしまった事がある。

ホームドクターに、数カ月後、「あれ、検査どうなったの?」と聞かれ、「検査では特に問題なさそうと言われたけれど、その後の専門医にはついにたどり着けませんでした」と伝え、結局そのままで今に至る。

症状がなくて、一応問題はなさそうと言われたから、放置のまま終わらせてしまうことができたけど、検査でなにかしら問題があった場合、果たしてどれくらいの早さで専門医までたどり着けるんだろうか?

ドイツ人も、こんな状況に辟易している様子だが、一向に改善の様子はみられないから、お金のある人たちはプライベート保険にお金を払い、そうでない人たちは、我慢するか、諦めるか、といったところなのだろうか?

先日、インドが公式にコロナウイルスの対策としてホメオパシーを推奨すると発表し、色々叩かれていたけれど、実際、漢方でもハーブでもホメオパシーでも、病院への受診が困難な状況であることを考えたなら、代替医療を取り入れて、何かしらの予防策をはっておくのも、何もしないよりは全然いいんじゃないか?

実際、ドイツ人の結構な割合の人はそう考えているんじゃないかと思う。なぜなら、紹介されていたホメオパシーを近所の薬局に買いにいったら、売り切れだった・・・(ドイツでは、100%ではないけれど、ホメオパシーのレメディーは、ほぼ薬局の店頭で手に入る。)

そして、ドラッグストアに売ってある、風邪専用とか、のど専用とかのハーブティー類も、トイレットペーパー同様に、完売していた。

私も、具合悪いのにドイツ語で症状を説明しなくちゃいけなくなる恐怖を想像したら、(いや、大概の病院では英語が通じるけれど、受付は厳しい・・・)何が何でも病院にだけは行かないで済む方法にお金とエネルギーを使いたい。保険適用じゃないけど、これは精神的な保険みたいなものだ。

今現在、現場で頑張ってくれている医療関係者の方には本当に感謝しているし、彼らを責めるつもりなど毛頭ない。ただ、この医療体制云々は、国や市がもう少し、なにかしらの対策をしてくれなければ、すべての市民が必要な時に迅速に医者にたどり着けるという安心感は得られないのではないかと思うのだが・・・

とにかく日々更新される情報は入手しなくてはいけないので、日本とドイツのニュースは毎朝チェックを欠かさないのが日課となっている。

そんな中、「観光客が消えたベネツィアの運河の水が美しくなった」という記事を目にした。

人間の活動が環境を汚し、ウイルスによる規制がそれを回復させる・・・なんという皮肉だろうと思うが、大気汚染で死亡する人の数が年間700万人とか、世界の6人に一人は環境汚染で死亡(https://www.bbc.com/japanese/41694017)なんていう研究結果を見ると、ウイルスによって人間の移動や活動が制限されたことによって、環境汚染が少しでも改善されるようなことがあれば、それで逆に救われる命もあるということか。

仕事を失って路頭に迷い、命の危険にさらされる人もいるかもしれないとか、実際はそんなに単純ではないかもしれないけれど。


家にこもり、コロナウイルスに関する情報を目にしながら、「日常」というものが、こんなに短期間で様変わりしてしまうものかということを、改めて思い知らされる。

去年の春は、忙しすぎてまともに見ることができなかった近所の桜が、あっという間に散っていくのを眺めながら、来年こそは、この桜が満開の時に見に来よう、と誓ったことを思い出す。

今、その桜並木の通りの桜に、小さなつぼみが芽吹いている。

人通りの消えたその通りが桜で満開になるときには、道行く人が幸せな笑顔で桜を眺めていられるといいな、と思う。

通りの角にあるカフェに座って、コーヒーを飲みながら、周囲の人たちの話し声を聞きながら、桜を眺める・・・そんな近い未来を想像しつつ、ベルリンの初春の一日は、今日も静かに過ぎていく。

※3月23日現在のベルリンは、日中のみ客席を1.5m空ければ営業可能だった飲食店も終日営業不可となり、現在はテイクアウトのみ。スーパー、ベーカリーと薬局や眼鏡店など一部の店を除き、殆どが閉められ、街は更に人通りが減った状況。





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