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サガン鳥栖の終焉、愛情の終わり

9月22日 J1第31節、サガン鳥栖は東京ヴェルディに0-2で敗れた。5人もの主力選手を売却して以降のほかの試合と同様、圧倒的ではないかもしれないが、それでも、確実に存在する力の差を、もはや「J1の壁」とさえ思えるものを、いやというほどに見せつけられての敗北だった。

守備面では、基本的にプレスに行かずリトリートして構えるが、にも関わらず、ほぼ全ての局面で、ざるのように相手に突破や縦方向のパス供給を許す。ファイナルサードに踏み込まれてさえ、なお、甘くゆるい寄せしか行わず、相手に自由なクロス供給を許す。

攻守の切り替えは極めて遅く、帰陣しきった相手を崩せるようなテクニックのあるチームではないのに、縦の速さの意識は希薄で、後方で無駄に時間をかけている間に、相手は悠然と帰陣して守備ブロックを敷く。

攻撃面では、パスの精度に根本的な問題を抱え、ボールを縦につけることはもちろん、逆サイドが大きく空いていても一本でサイドチェンジすることもできない。ただただ、近場のボールの出しどころを探している間に、複数の相手に囲まれてボールロストし、カウンターを受ける。

采配面では、3バックを採用しているが、昨季ブンデスリーガでレバークーゼンの快進撃の礎ともなった、安定感のあるオーソドックスな3バック2ボランチではなく、不必要に難解な、1ボランチの3-1-4-2という布陣で、攻守においてぎこちなさばかりが目立ち、選手間にまったく落とし込まれていない。とりわけウイングバックの背後、アンカーの脇のスペースは、しつこい程に相手のサイド攻撃の起点に利用される始末だ。

精神面では、ミスを犯しても、悔しがるどころか苦笑いのような薄ら笑いを浮かべるだけの選手がいたり、死にもの狂いで何がなんでも勝ち点を奪うのだという姿勢や気持ちが、全員からは伝わってこない。

そのような状態だから、サッカーでよく言われる、「相手の嫌がることをする」「相手の良さを消す」というセオリーとは完全に真逆の、「相手の良さを最大限に引き出すサッカー」をしている。それはまるで、紅白戦で主力組の調子や気分を整えるために用意されたサブ組のようであり、相手は気持ちよくサッカーをし、サガン鳥栖をねじ伏せる。

第25節を終えた後、筆者はJ1残留への一縷の望みを、「サガン鳥栖よ、堅忍不抜の努力を、いまもしているか」という記事に託した。だがその望みは、潰えたのかもしれない。川井健太監督体制下で失われたもの、壊されたものの大きさは、想像をはるかに超えていたと、思い知らされた。

またその間に、川井健太監督と共謀するかのようにクラブのフロントが行った愚行の数々も(監督人事、移籍市場での立ち振る舞い、片渕浩一郎ヘッドコーチの現場からの左遷→結果、他クラブへの流出、など)、すでに取り返しのつかないところにまで達してしまっていた。

サガン鳥栖の、終焉である。

筆者は、札幌、神戸、湘南、川崎に喫した直近の4連敗中、すべての試合後に、涙があふれた。苦しく、つらく、かなしく、とどめようがなかった。だがその間にクラブが行ったことといえば、自分たちに危機などまるで迫っていないかのような、グッズやイベントの呑気な広告や、第32節 福岡戦をダービーと位置付けて「この一戦にすべてをかけろ」などという、いまさら場違い極まりない能天気なキャッチコピーとプロモーションで集客を煽るくらいのことである。

サガン鳥栖というクラブの置かれた状況を鑑みれば、38試合、全試合に「すべてをかけなければならない」のではないのか。福岡戦など、そのうちのひとつに過ぎない。いったい、どういう了見なのか。
そもそも、7月にクラブが宣言した川井健太監督との心中を、1か月もしないうちに撤回して監督交代に踏み切ったことへの説明や謝罪さえ、サポーターに行っていないではないか。クラブとして責任や役割を、まったく果たしていないではないか。

今節、敗戦後に、もう涙はあふれなかった。

愛情の、終わりである。

サポーターの愛情、いや少なくとも、筆者の愛情は、無償のものではない。クラブや選手に愛されていると感じてはじめて、生まれるものだ。

クラブや選手が最大限の努力と愛情を示してこそ、サポーターにもそれが生まれ、誇りとなるのだ。

筆者が愛したサガン鳥栖をいまも感じられるのは、夏に来たばかりの、名古屋グランパスから期限付き移籍で在籍しているにすぎない久保藤次郎選手の必死な姿勢や試合後の悔し涙にだけ、というのは、サガン鳥栖を愛しつづけた者にとって、これ以上ない、酷く、悲しい仕打ちである。

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