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野生のくま(のぬいぐるみ)

この冬は雨が少なかったように思う。ただし今年の雨は、降るときはとにかく降る。今日も春の嵐という言葉がふさわしい、横殴りの雨が降っている。

年が明けてから、雨が降る日は少し憂うつだった。

それは正月明けの出来事だったと思う。近くの唐揚げ屋でお弁当を買おうと立ち寄り、揚げたてを待っていたところ見つけてしまったのだ。野生のくま(のぬいぐるみ)を。よく見ると、小さい子どもが座れるようになっていてベビーチェアーなのだけど、布感がぬいぐるみと一緒。ふわふわしている。とりあえず、なでてしまう。

「野生の〜」というのは時々twitterで見かけるワードであり、道ばたに捨てられていることを表現するものだ。例えば、野生のスーファミというような使い回しである。

最初のうちは、誰かが忘れていったもの(その可能性はまるで低い)や、そのうち回収されるだろう、もしくは唐揚げ屋か隣の中華屋が対応するだろうと思っていた。しかしながら、かわいそうに思ってしまうので近づきたくないと思いつつも時々様子を見に行くと、1ヶ月たっても2ヶ月立っても野生生活している。

3月頭、明日は強い雨が降るという。何かしら雨で濡れないようにと方法を悩んでいたら急に土砂降りになり、そのことにとても悲しくなる。もう我慢ならず、パソコンを開き粗大ごみの申込みを行う。ボロボロになる前に、旅立たせてあげたい。引っ越しの季節なので、予約できたのは2週間後。2週間後まだ居るならば、自分が旅立たせる。

その後はちょくちょく見に行く。気づいたら、他にもゴミが捨てられていて、それらと一緒に回収不能のシールが貼られた。むしろ今までなぜ貼られなかったのか。ゴミとわかるように、電柱に立てかけて置いてあった。

そして、回収の前日。帰り道に様子を見に行くと、やはりまだ居る。夕飯を食べ、深夜に家を出る。コンビニで300円のごみ処理券を買い、どきどきしながら向かう。街灯に照らされた彼は、最初に出会った頃と比べると砂ぼこりが見える。撫でてみると、少しざらざらしているものの、でも、温かさは伝わってくる。

家の前まで持ってきて、犬をかわいがるようにたくさんなでる。ありがとうとかお疲れとか心の中でつぶやきつつ。ベビーチェアーであることをすっかり忘れていたので最後座ってみるが、大人が座るには無理があり少し笑ってしまう。

見かけると辛くなってきてしまうので、朝は見なくてすむように裏口から家を出た。そして夕方、これまたどきどきしながら家に帰ってくると、姿がない。彼は無事に旅だったようだ。

他人が出したごみをお金を払ってまで捨ててあげるという、この行為にまだ気持ちの整理がつかない。自分でも自分を変な人だなと思う。もしかしたらこうやって文章を書くためにネタとしてやったのではとか、行為そのものが自己表現なんじゃとすら思ってくる。でも、どうしてもそうしたかったのだから、仕方がない。そのぬいぐるみが、どのような人生を送ってきたのか分からないけれど、せめて最後は良いことがあったと思ってほしい。

今日の雨に濡れなくてよかった。良い旅立ちになりますよう。

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