見出し画像

桜田門外の変のその後

1860年3月24日に水戸天狗党の残党と脱藩薩摩藩士有村次左衛門が、江戸城に行こうとする大老井伊直弼の行列を襲撃して、有村が井伊直弼を斬首したとされる事件で、幕末動乱の始まりと言われています。
でも、実は井伊直弼は死んでいなかった事を知る人はあまりいません。

画像1

私は桜田門の近くの裁判所で司法手続きをやっていて『新・桜田門外の変』と勝手に呼んでいますが、これの結果はどうあれ、そのあとは桜田門外の変と同じような感じになると思っています。

さて、首を胴体から切り落とされた井伊直弼がその後、どうなったかというと有村次左衛門たちに首を持っていかれてしまいます。
ところが有村は、後ろから彦根藩士に切りつけられ瀕死に、、、

画像2


「もはやこれまで」と、遠藤さんの家(今の東京海上日動ビル)の前で自決して首級は遠藤さんに託します。なにせ遠藤さんは大老井伊直弼から『安政の大獄』でいぢめられていたので、首を託すにはもってこいだったのです。

ここから、『桜田門外の変~第2章~』が始まります。

譜代筆頭のお家柄とはいえ、主君が浪人に打ち取られたとなると、彦根藩はおとり潰しになってしまい、藩士たちは失業してしまいますから、遠藤さんのうちへ行き、首を返してもらおうとお願いします。

画像3

ところが遠藤さんは返してくれません(笑)
散々、安政の大獄でやられたので、いぢめっ子筆頭の井伊掃部守のにっくき首を、偶然とはいえ手に入れたのですからね。ちょっとやり返そうと思うのは当然というもの。
意趣返しというやつですね。

遠藤さんは彦根藩士たちを、5回もすっとぼけたり追い返しました。
最後は幕府も仲裁に入って、大人の力も使って?ようやく首を返してもらった彦根藩士はお抱えの医者(今でいう忽那、尾見、中川、尾崎)に首と胴体を縫い合わせてもらい、急病という届け出を出します。

幕府はといえば、この事件が知れ渡ったら大変なので、大手瓦版屋(今の朝日、読売、毎日、産経、日本経済新聞)を使って、井伊大老は療養中として隠蔽工作をはじめて情報操作をしようと捏造報道、大本営発表をはじめます。

ところが、、、

この件は、町人たちや後続の大名たちにバレバレでした。
なにせ町人達は武鑑(今の衆議院議員名簿?)を手にして、近くの茶屋(今のドトールコーヒー霞が関駅店)で大名駕籠見物していましたから、一部始終を見ていたので、またたく間に江戸中に言いふらしてしまいます。

これにより当時の2流瓦版屋(今のサンケイスポーツ)では、

将軍からお見舞いの朝鮮人参が下賜されて
「人参で首をつげとの御沙汰かな」とか、
井伊掃部頭(いいかもんのかみ)をもじって
「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」
とかの川柳が掲載されることになります。

この辺までで、何が言いたいのかはわかってくると思います。

大老の首がすっ飛ばされても(私の司法手続きが上手くいっても)、幕府の方針(政府の方針)やら政策(ワクチン接種事業)が変更されることはございません。
何もなかったかのようにふるまわれ、何の変化も感じられない事でしょう。

そのあと、どれだけの人達が続くかという事の方が大事だという事です。
瓦版(新聞)にちゃんと書かれないと、動きが起きにくく、とはいえ偏向報道や言論統制はいつもの事ですので、それまでは市民の力が高まっていかないとどうにもならないという事ですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?