【web再録】マキちゃん





1.


同じクラスのマキちゃんは同級生と違ってナプキンを投げて寄越したりしないしロッカーで食べかけのランチパックを発酵させたりしない。窓際の席でつまんなそうに授業を受けて、チャイムが鳴ったら誰とも話さず一番に帰っていく。学校のどこにいても、誰にも、何にも興味がありません。みたいな顔をいつもしている。私の渾身のモノマネだって、見えていたはずなのにクスリともしなかったし。SNSも、多分やっていなくて、だから写真のためにクレープなんかの長い列に汗をかきながら並んだりすることもない。国語が得意で言葉をいっぱい知っている友達が言うには、ああいうのは「お高くとまっている」んだそうだ。
だけど、マキちゃんは美少女だ。肌は牛乳みたいに白かったし、まつ毛は顔に影ができるくらい長かった。身長の割に細くて長い手足も羨ましい。マキちゃんは、かわいい。だから誰にどう思われようと、何を言われようと、マキちゃんは勝ちだったんだ。

マキちゃん。どうして、東京なんかに行ってしまったんですか。どうして、茶髪になんかしたんですか。どうして、彼氏なんかつくったんですか。どうして、私とのこと、なかったことにしてしまうんですか。




その日も、マキちゃんは帰宅一番乗りだった。廊下側の一番後ろの席で、ホームルームが終わるか終わらないかくらいのタイミングで席を立って出て行ってしまうので、みんなが今日も一日おつかれさまって肩の力を抜いた時にはすでに跡形もない。でも、教室はそんなマキちゃんを気にも留めなかった。別に嫌われてもいないし、いじめられてもいないけど、いてもいなくても変わらない。マキちゃんは空気だった。
でも私は、3年生になって、クラス替えがあって、通路を挟んで隣同士の席になった瞬間から、マキちゃんのことかわいいって思ってたよ。ちょっとした風にも揺れる細い黒髪。冷たそうな肌。切れ長で白目の領域が広い三白眼気味の目。私が今まで好きになったどんなアイドルにも似ていなかったのに、マキちゃんは圧倒的な顔面とその身に纏った気怠げな空気で私をノックアウトした。その魅力に気づかない同級生は、マキちゃんのことを地味だとか、暗いとか言う。

放課後の教室からは1人また1人と友達がログアウトしていくけど、私たちのグループはどうしようもないお喋りを続けている。ほんとは早く帰りたかったけど、「そろそろ帰ろっか」って言うのは私の役割じゃなかったから、何も言えなくて、ただただ友達の話に笑顔で相槌をうつ。悩み事に対しても、具体的な解決策とか、含蓄のある言葉とかは全然求められてない。だから、話の内容のどこで笑ってどこで驚いてどこで共感してほしいのかっていうことだけ予測して反応できれば、教室では何も困らなかった。ヤバい、ダルい、すごい、かわいい、この辺の便利なワードがあればデッキを組んで十分戦える。難しいことは偉い人とか賢い人とかマツコ・デラックスとかに任せて、私たちはただバカみたいに手を叩いて笑っていればいいんだ。

テスト前のグラウンドには誰も居ない。先に帰った人たちは塾なり家なりで勉強をするんだろうな。残念ながら私たちの中にそういう発想を持ってる子は1人もいなかった。テストは実力を見せる場だから、直前に勉強するなんて卑怯です。そういうこと平気で言えちゃうみんなのことは嫌いじゃないよ、うちの学校、女子大の附属高校だからよっぽどのことがない限り大学まで行けるしね。

「澤田さんさあ、」
澤田、っていうのはマキちゃんの苗字だ。さわ、は画数の多い、カッコいい方のやつ。そんなところまでマキちゃんは徹底している。私は友達の口からマキちゃんの名前が出たのが嬉しくて、何でもない風を装ってスマホから顔を上げる。
5個上で、バンドやっとる彼氏がおるんやって。って聞いて、告白しても無いのに失恋したみたいにショックだったよ。好きだった女優さんがいきなりデキ婚した時の衝撃と似てるね。でもマキちゃんの彼氏なら世界一カッコよくて世界一優しくて、そのバンドもきっとそのうちビートルズみたいになるんだよね、って思う。

「5個上やったら、今22?23?」
「そんくらいやな」
「うわー、もうヤったかな」
「ヤってるやろ!5個上やで、5個上」
「やば、相手犯罪やん」

友達が笑ったから、私も慌ててそれに合わせる。

「バンドマンってヤリチンやって言うしな」
「そうなん」
「そうやろ。ファンの子食うらしーわ」
「澤田さんもその彼氏だけやなくてメンバー全員とヤってるかもしれへん」
「あかんあかん!ビッチやん!」

よくもまあ、と思う。みんなマキちゃんの誕生日も好きな食べ物も洋服の趣味も知らないくせに、そんなこと言えるよな。でも、そんなことない、と叫べない私は意気地無しだ。何も言えない。だって私も、マキちゃんのこと何も知らない。
噂と悪口を食べて生きている同級生はさらに続ける。

「ほんでさ、澤田さん、時々手とか足とかに痣あるん知ってる?」
「あ、体育の時に見たかも」
「あれその彼氏に殴られてるらしいで」

たしかに、数週間前、制服の袖が短くなった時。マキちゃんの腕に大きな痣があるのを見た。うす紫色はマキちゃんの白い肌によく似合ってて、痛そうとかより先に、綺麗だなあって思ったりした。どこかにぶつけてできた痣なんだと思っていたし、すぐ薄くなったからあまり気にはしていなかった。
あれが殴られてできた痣だなんて信じたくない。だって、マキちゃんと付き合えるようなバンドマンなら、世界一カッコよくて世界一優しいジョンレノンであるべきだし、そうじゃ無い人をマキちゃんが選ぶと思えなかったし。

机がオレンジ色に染まっている、西日が私たちに帰宅を促している。夕陽が夏に向かう季節の脆い日差しを纏って、遠い地平に落ちていく。そろそろ帰ろっか、って誰かが言った。私は、濁った教室の空気を吐き出して、教室を出ていく同級生の背中を追う。
マキちゃんはもう家に帰っただろうか。それとも、例の彼氏と会ったりしているんだろうか。





「ねえ、澤田さん」

次の日、憂鬱な獣みたいに退屈そうなマキちゃんの横顔に、私は思い切って聞いてみた。

「彼氏に殴られてるってほんまなん」

マキちゃんが目を見開く。

「なんそれ、何処で聞いたん」

マキちゃんは今日は肩につくくらいの髪を頑張って後ろに結っていて、生まれて初めて陽の光を浴びるみたいな真っ白なうなじが見えている。汗でうねりながら首筋にぺったり貼り付いた後毛に、何故かどきりとした。

「塾一緒の子ぉが言うとった」

同じクラスの人にそう噂されていると知ったらマキちゃんは気分が悪いんじゃないかと思って、咄嗟に嘘をついたけど、よく考えたら全然知らない人にそんなことを知られている方が怖いのではないかとも思う。ごめんね。

「ふーん」

興味なさそうな声。鬱陶しそうに細められた目元。長い睫毛を伏せる瞬間ですら愛おしい。

「ほんまなん」
「どうやろ」
「ほんまなんやったら、別れた方がええんちゃう……」

ほとんど初接触の相手にこんなこと言うなんて、自分でもどうかしていると思ったけど、私は自分の好きな友達に彼氏ができたら毎回嫉妬していたし、その友達が彼氏と喧嘩したと聞けば内心そのまま別れろと思っていたし、仲直りした報告を受ければ毎回憎しみでハラワタをグチャグチャにしていた。だから、マキちゃんとは別に仲良しってわけじゃなかったけど、私はマキちゃんのことかわいいと思ってて、好きだったから、そういう噂のある男の人とマキちゃんが付き合っているのはマジでムカつくし、さっさと別れてくれないかな、と思った。

「それ、嘘やで。たぶんこれ見て言うとんのやろ?ぶつけて出来たやつやし」

マキちゃんは肘の少し上にある、ドス黒いっていうか、なんか凶悪な色の痣を指差して言う。痛そう。

「そうなん」
「うん」
「ほんまなん」

マキちゃんは何も言わないで私から目を逸らして、いつもの無気力で寂しそうな顔に戻った。

「好きよな、自分ら。そういう話」

マキちゃんは私の顔を見ないで吐き捨てるように言う。頭皮と脳みその間に張った膜がキンと冷えるような感覚。居心地の悪さ。私はまたなにも言えなかった。





その日の帰り、私はみんなに澤田さんの痣、ぶつけてできたやつらしいで、殴られてへんって言うてたで、って報告したけど、センセーショナルな話題以外は口にしない偏食な彼女達は、ふーん、そうなんやってつまらなさそうにしただけだった。私はどうしてみんなと友達やってるんだろう。なにも考えずにすむからかな。
でもそれってほんとに幸せなこと?
誰々と誰々が付き合っている、誰々と誰々がヤった、誰々はウザいから嫌い、登場人物だけが変わる同じ話ばかり、私たちはいつもしていた。群れて、叩いて、悪口を言えば言うほど、自分が強くて特別な存在になった気がした。
ほんと、おわってる。そんで、それを『わかってる』ことを逃げ道にして、何もできないくせに周りを見下すことだけやめられない私が、一番、おわってる。それが、マキちゃんには多分バレている。

「違う」

マキちゃんが彼氏に殴られていなかったということより、私がマキちゃん本人に直接痣について聞いた、ということの方がよっぽど衝撃が大きかったらしく、話題は私の無神経さとか大胆さとかにうつっていた。そんな流れで私がいきなり違うとかいうから、イジられたのに反論したと思ったらしくて友達はみんな笑った。
マキちゃんの言う「自分ら」に括られていたことが悲しかった。みんなと同じだと思われてること、でも結局のところ同じなことがとても辛い。好きでもない若手俳優をカッコいいって言ってみた。好きでもない大きいパフェを食べに行った。好きなアイドルのことは知らないって誤魔化した。女の子ばかり好きになるのは私の頭がおかしいからで、だから誰にも言えなかった。
マキちゃんは違うのかな。マキちゃんは、自分だけのかわいいに忠実に生きられてるのかな。他人の好きを灯台にしなくても、一番良いものを最初から選べるのかな。私も本当は、全員でお揃いにしたローファーなんか脱ぎ捨てて走り出したい。




塾からの帰り、ラブホテルとかキャバクラとかが集まっている通りを通ると、家に10分くらい早く着く。親からは危ないから通らないようにって言われてたけど、早く帰りたい一心で私はいつもその道を使っていた。夜の街はきらびやかで怖い。そこにいる人たちには言葉は通じないのではないかと思ってしまう。
いつものように、誰とも目を合わせないように俯いて早足で帰っていると、視界の隅に、私とおんなじ制服がチラッとうつった。思わず足を止めて振り返る。マキちゃんだった。マキちゃんもビックリした顔でこっちを見ている。知らない男の人と腕を組んでいる。噂のバンドマンの彼氏なのかな。5つ年上って聞いてたけど、軽く30は年上に見える。くたびれたグレーのスーツ、眼鏡は、昔秋葉原でいっぱい人を殺した犯罪者がかけていたのと多分おんなじやつで、それだけですごく嫌な感じがした。男の人が何か言った。友達?とかって聞いたんだと思う。マキちゃんはそれに対して首を横に振って、男の人の腕を引っ張って私に背を向けて行ってしまった。黒いスーツを着た怖い顔のおじさん、派手な化粧の綺麗なお姉さん、金髪の若い男の人は仕事に行く前のホストだろうか。そういうのが全部スローモーションで流れていく。マキちゃん、どこに行くの。その人と何するの。

マキちゃんは、かわいくて、綺麗で、多分自分というものをしっかり持っていて、教室ではいつも1人で、5歳上の彼氏がいて、その人に殴られてはいないけど、いつも体に痣があって、繁華街でおじさんと腕を組んで歩いている。もうわけがわからなかった。
ネオンの光と喧騒を振り切って家に帰った。何も考えずに済むように耳にイヤホンを押し込んで音楽を聞きながらご飯を食べていたらお母さんに怒られた。お風呂に入ったのに、嫌な心臓の鼓動がおさまらなくて、友達に教えているのとは違うアカウントでフォローしているアイドルのインスタが更新されていないか狂ったように確認した。深夜まで布団の中でそうやっていた。マキちゃんは今どうしているだろうと考えかけて、やめる。そうこうしているうちに、私は眠気にゆっくり取り込まれていった。

夢を見た。マキちゃんの夢だった。夢の中では私はマキちゃんの彼氏で、あるいは眼鏡のおじさんで、なんもない部屋の中央に置かれた白いベッドの上でマキちゃんとセックスをしていた。白い体が私の下で波打っている。黒い髪が、ぱさぱさと、何度も枕にぶつかって、首に浮いた汗が、脳みそにこびりついている、私、私は、マキちゃんのことが。
その辺りで目が覚めた。パジャマにしている中学時代の体操服は汗びっしょり。最悪。シャワーを浴びよう。冷たい水で、経験のないイマジナリーなそれを頭から追い出そうと試みる。お母さんが朝ごはんに作ってくれたフレンチトーストを食べていても、マキちゃんのお腹のくびれのことばかり考えてしまう。私は今日マキちゃんの顔をちゃんと見られるだろうか。




朝学校で見たマキちゃんは別にフツーで、特に私のことなんて気にせずに、相変わらず頬杖をついて静かな目をしていた。昨日のは、見間違いだったのかもしれないと、希望が見えてくる。だってマキちゃんは今日もかわいい。氷のように透明な女の子。髪を下ろしている。寝癖なのかなんなのか、肩に落ちた髪が一ヶ所だけクルンと跳ねていて、そういうところもかわいくて、マキちゃんはかわいいの天才だ!と思う。フラチな夢を見てしまったことも、安心してマキちゃんのせいにできた。

体育の時間の終わり、私が一番軽い跳び箱を体育倉庫に運び込んでいると、重い引き戸を引摺る音がして、倉庫の中がゆっくりと暗くなった。扉のところに人がいる。直感で誰だかわかった。

「澤田さん、なに」

マキちゃんが息を詰める気配がする。シルエットだけになったマキちゃんは、何故か砂っぽい床を体操靴の底で擦りながら、

「きのうの、誰かに言うた?」

て言った。繁華街で見たものが夢でなかったことに少なからず落胆する。

「言ってへん」
「言う?」
「言わん」
「ほんまに?」
「ほんまに」

マキちゃんはそっか、とだけ言って、体育倉庫から出て行こうとした。

「待って」

慌ててひきとめる。

「なに」
「誰にも言わん、言わんから教えて、あそこで何やってたん、あれ誰なん」

安心が欲しかった。マキちゃんは潔白であるという安心が。マキちゃんが自分が思った通りの女の子であるという確信が。マキちゃんは、かわいくて、綺麗で、自分というものをしっかり持っていて、それで……。

「何って、わかるやろ……」
「わからん」

マキちゃんは少し呆れた顔で言う。私は語気を強くする。マキちゃんは大きなため息をついて、扉に背中を預けたまま、ズルズルとその場にしゃがみ込んだ。

「……ご飯食べて、お金貰うねん」
「ご飯食べただけ?」
「うん」
「ほんまに?」
「……昨日は」
「ご飯食べるだけじゃない日もあるん」
「うん、わからん、また会いたいって言われたから、その時どうなるかは……」

手足の先が冷たくなる。体操服の裾を掴んだ指が震える。

「そのお金、何に使うん」
「べつに……」
「澤田さん、ブランドとか、そういうん興味ないやろ、知らんけど」
「無いけど」
「じゃあ何」

建て付けが悪くて閉まりきらない扉の隙間から漏れた光が、空気中をただよう埃や塵を丁寧に浮かび上がらせている。本物を見たことはないけど深い海の底のようだ。喧騒が、遠くから薄暗い箱に染み入って、泡のように私たちに纏わりつく。しゃがみ込んで俯いたマキちゃんの顔はわたしからは見えなかった。

「……彼氏がな、」
「うん」
「バンドやってんねん」
「知ってる」
「機材買うから、お金要るんやって」
「なんそれ、お金渡せって言われたん」
「言われてへんけど、でも……」

なぜか無性にイライラした。つま先を見つめるその小さい頭を掴んで、私の方を見て欲しいと思った。

「殴られてるんは、」
「え」
「ほんまなんよ」

自分らの言ってる通りやで、良かったな、おもろくて。とマキちゃんは静かに言った。白い太腿に新しい模様が見える。くすんだ紫と黄土色のグラデーション、濁った血が皮膚の下にあるという証拠。全然綺麗じゃない、全然似合っていない、きもちわるいし許せなかった。

「マキちゃん、」

今思い返しても、自分がなんであんなことをしたかはよくわからなかった。夜にあんな夢を見て、ムラムラしていただけかもしれない。ただ、自分から進んで不幸になろうとしてるみたいなマキちゃんのことが許せなくて、掴みかかってキスをした。一瞬だけ柔らかさがぶつかる、クソガキみたいに乱暴なキス。マキちゃんの体は多分私の知らないことをいっぱい知ってる、だけどキスは私で3人目くらいだと良いなって思った。マキちゃんは声も出せないくらいビックリして固まっている、教室では絶対しない顔、ちょっとだけ泣きそうな、17歳の女の子の顔だった。

「私はさ」
「う、うん」
「マキちゃんのこと殴ったりせえへんし」
「うん」
「デートとかは……割り勘しか無理やけど」
「うん」
「私の方が、マキちゃんのこと幸せにできると思う」

マキちゃん、自分から汚れに行かないで、自分から不幸にならないで、自分で選んだ地獄に酔うような、頭の悪い女にならないで。
マキちゃんのこと、恋愛対象として好きだとか、そういうことはよくわからなかったし、あんな夢を見ていても、セックスしたいとか、そういうのは全然思わなかったけど、どちらにせよマキちゃんとなら何でも叶うような気がしていた。ねえ、って私が口を開いた時に、首を少し傾けたマキちゃんに舐めるみたいにキスをされた。仕返しって笑われて、今度はこっちが固まってしまう。

「幸せにしてくれるん」
「うん……」
「ふーん、じゃあ、証明してや」

がんばる、って呟いた声は小さすぎてマキちゃんには聞こえなかったかもしれない。マキちゃんはいつもの目で、私の黒目の奥の奥、網膜さえも貫いて、拙い脳みそを見透かしている。















2


東京の大学に進学したマキちゃんが、夏休み、少しだけこっちに戻ってくるらしい。高校を卒業してからは、時々思い出したみたいに連絡を取り合うだけだったから、私は、私たちの関係が今どうなってしまっているのかよくわかっていなかった。それでも、私がマキちゃんを特別に思ってることには変わりなかったし、会いたいと思うのも、変わりなかった。だから私はマキちゃんを地元でいちばん大きい駅の近くにあるしゃれた感じの喫茶店に呼び出したし、マキちゃんも、あんま長いことおれへんけど。って言いながら、電車を乗り継いで私に会いにきてくれた。

久しぶりに会ったマキちゃんは茶髪になっていた。茶髪って言っても、セルフで染めたみたいな安っぽい色じゃなくて、太陽に透けるみたいな、綺麗な色。ちょっと奇抜な感じだったけど、色の白いマキちゃんにはよく似合っていた。服も、高校の近くにあったイオンじゃとても置いてないような、よくわからないけどおしゃれなやつ。服のことは何もわからないから何とも言えないけどマキちゃんが着ているならそれはかわいいんだと思う。きっと東京のおしゃれなお店で買ったんだろう。自分の着てる量販店のワンピースが恥ずかしくなる。よくある花柄。自分のクローゼットの中ではいちばんかわいく見えたのに。マキちゃんは、どくどくしい色のクリームソーダをすする私を見て、変わらんね、って言って笑った。私もマキちゃんにそっちもね、って言いたかったけど、とてもじゃないけど、言えなかった。仕草、表情、匂い、言葉遣いは、関西弁が少し抜けて、不自然な標準語が時々顔を出した。
私の友達の中では、マキちゃんだけが別の大学を受験して、合格して、そして進学してしまった。高3の終わり頃、マキちゃんは毎日東京に行きたいって言っていた。田舎生まれ田舎育ちフードコートにいるやつ大体友達みたいな私にとっては、東京に住むなんて考えてみたこともなくて、とうきょう、って声に出してみてもそれはどこか借り物のような口当たりだった。マキちゃんが夢見るような表情で東京に行きたい、と繰り返すたび、東京がますます遠い場所のように感じられたことを覚えている。
大学。初めての一人暮らし。バイト。サークル。私の知らない土地の、私の知らないマキちゃんの話を、目の前の女の子は楽しそうにたくさん喋った。私といえば、実家から通える範囲の女子大に進学して、週に2回くらいしか活動のない映画サークルに入って、別に、すごく楽しいこともなければ、とりたてて辛いこともない、って平凡な感じです。東京の女の子になっちゃったマキちゃんが楽しんでくれそうな話題は何も用意できそうにない。ただただ、貧困なボキャブラリーの中から、適切だと思われる相槌を捻り出した。マキちゃんは自分ばかりが一方的に話しすぎていると思ったのか、アイスティーを一口飲んで、一拍おいたあと、私に聞いてきた。

「なあ、なんか、いい話とか、ないん」
「いい話?」
「うん」
「感動系?」
「ちゃうよ、あーでも、女子大やったっけ」

マキちゃんは私から目線を外して、ストローをくるくると弄んだ。透明なグラスの皮膚を、つう、と水滴が滑っていく。

「かっこいい人とかさあ、居らんの」

マキちゃんはどうしてこんなことを聞くんだろうって思った。不思議だ。だって私たち、付き合ってるんだよね?そりゃあさ、遠距離になっちゃったし、高校卒業してから会うのは今日が初めてだけどさ、別れ話だって、してないよ。

「居らんよ、そんなん」

被せるようにして答えた。かっこいい人もかわいい人も、私にはマキちゃんしか居ない。

「なんで、そんなこと聞くん」

喫茶店、さっきまでこんな暑かったかな。手のひらにいっぱい汗が滲んでくる。マキちゃんは私と目を合わせない。うつむいていて、表情が見えない。うす暗い体育倉庫で初めてキスした時のこと、なぜか急に思い出した。

「なんで、」

もう一度聞きかけた声は明らかに震えていた。マキちゃんは、その小さい手で小さい顔を覆って、はあ、って息を吐いたあと、

「好きな人、できた」

って言った。意味がわからなかったのは、耳馴染みのない標準語だったからかな。店内のBGMが急に大きくなった気がした。後ろの席に座っている大学生のくだらない話がやたらと耳に入る。目の前の女の子。茶髪。グレージュって色だって言ってた。あ、最終回を迎えたドラマ、録画予約取り消すの忘れてる。自分の指先、はげかけたセルフネイル、ちゃんとしてくればよかったな、帰り道にいつもいる猫。どこかでスプーンが落ちる音がした。あれ、なんだったっけ?アイラインとアイシャドウで、わざとらしくない程度に拡張された目元。濡れたみたいな、赤いつるつるの唇は、緩んだまま、照れたように何か話していた。上手く聞き取れなかった。周囲の会話に気を取られたまま、あれ、なんの話をしてるんだっけな、この子は誰だったけな、と思う……。

「どういう、人なん」

カラカラの喉から絞り出したのは、なんで、でも、どうして、でもなく、そんなありきたりなつまらないことだった。
同じ軽音サークルの2つ上の先輩で、背が高くて、とにかく音楽の才能のある人らしい。新歓で歌ってるところ見て、好きになっちゃったんだって。マキちゃんの話を咀嚼するには、あまりにも頭が回ってなくて、ところどころ取りこぼしはあるけど、彼女の言い分はだいたいそんな感じだった。

「その人な、うちの声が好きやって言って、俺の作った歌歌ってほしいって、言って、やから今2人でさ、夜の公園とかで、曲作ったりしてて……」

マキちゃんは恥ずかしそうに言った。マキちゃんの頭の中は今その人でいっぱいらしかった。私が注文したクリームソーダはとっくに溶けて、グラスの中で白と緑とがグチャグチャに混ざっていた。マキちゃんは、さっきから何度もiPhoneを見て、時間を気にしているみたいだった。

「そろそろ、出よっか」

私が言うと、マキちゃんはホッとしたみたいに頷いた。




駅までの短い距離。日焼けは然程気にしないけど、日差しがきつくてしんどかった。昼間の熱を抱いたアスファルトが送り出す、饐えた熱気の中を2人で夢みたいに歩いていく。隣にいる女の子は、本当にあのマキちゃんだろうか、と思った。あの、1人で、強くて、それでもどこか寂しそうだったマキちゃんだろうか。

駅で、マキちゃんだけが切符を買った。

「じゃあ、また、冬休みとかかなあ」
「うん」
「ありがとう、久々に会えて嬉しかったわ」

私も、って言葉は、喉につかえて出てこなかった。曖昧に笑って、手を振る。マキちゃんも、ばいばい、って、改札を抜けていった。人混みに紛れていく、一度も振り返らないままで。どんどん見えなくなる。忙しく人が動いている。私だけがその場で動けないでいる。ねえ、マキちゃん、私本当は、バイトで同級生に告白、されたんだよ。いい人だった。この人なら、好きになれるかも、って思った。だけど、返事するより先に、マキちゃんの顔が浮かんじゃったから、私、はいって、ありがとうって、言えなかったんだ。




家について、お母さんに晩御飯は要らないって言ったらもっと早く言ってよって怒られた。生返事で化粧も落とさずにベッドに潜り込む。マキちゃんからラインがきていた。開く気には、なれない。マキちゃんにとって私はなんだったんだろうと思う。私にとって、マキちゃんはなんだったんだろうと、思う。セックスは結局一度もしなかったし、やり方は今もわからない。キスも、最初にしたあの一回だけ。そのかわり手を繋いでどこへでも行った。同級生に付き合ってるん?ってからかわれて、冗談を装ってそうなんよって答えたりした。2人でいれば最強になれた気がした。何も怖くなかった。私はそう思ってた。マキちゃんは、どうだったんだろう。同じように思ってくれてるって、確信が持てなくて、一度も確認できないままだった。私の独りよがりだったのだろうか。

気づいたら、家についてから2時間くらい経っていた。ラインを返さないといけないと思った。マキちゃんからの通知。どうせ当たり障りのないであろう内容より先に、アイコンが変わっているのが目に付いた。
ディズニーランド?シー?で撮ったであろう、男女のツーショット。1人はマキちゃんで、クマのキャラクターの耳をつけて、楽しそうに笑っている。もう1人は背の高い男の人で、前髪が長くて顔はよく見えないけど、マキちゃんのすぐ横で、幸せそうな雰囲気が何となく伝わる。
ショックを受けるより先に反射的に涙が出た。マキちゃんがさっき話していた人だってすぐにわかった。同時に、マキちゃんの嘘も。好きな人なんかじゃない。2人はきっと付き合っている。マキちゃんもきっと、この人を好きになった時に、私の顔が思い浮かんだんだ。だからきっと、私に嘘をついたし、アイコンだって今日まで変えられなかった。会って、話して、私の中で、マキちゃんと付き合ってたことがなかったことになってたってわかったから、勝手にそう思ったから、マキちゃんは。
透明で、綺麗で、氷みたいなマキちゃん。1人で強くてでも寂しそうで、そういうところがかわいかったマキちゃん。ただ静かにそこに居ただけで、私のつまらない青春をブッ壊してくれたマキちゃん。でも、そんな子は最初から居なかったのかもしれない。私は一度でも、アイドルでも、神様でもない、ただの生身の人間として、マキちゃんを好きだったことがあっただろうか。薄い胸の向こう側にある、欲張りとか、鬱屈とか、偏見とか、性欲とかそういった誰にでもある全てごと、マキちゃんを見つめたことがあっただろうか。そう考えた時、マキちゃんが東京はいい街だと、お互いに何も期待せず、ほどよくみんな無関心なんだと、言った意味が、ようやく分かった気がした。

テスト前の勉強会が全然捗らなかったこと、2人で行った市民プール、うちにお泊まりした日にマキちゃんが私の布団に潜り込んできたこと。カラオケに行って歌いもしないで4時間他愛もない話をした。マキちゃんが他の女の子と仲良くしすぎるのが嫌で拗ねたら、そういうとこちょっとかわいいって言ってくれて嬉しかった。一緒にお風呂に入った時に、本人には言えなかったけど、マキちゃんの白い裸にドキドキしたこと。夕方の燃えてるみたいな太陽の光がマキちゃんの頬に映るのがずっと綺麗だと思ってたこと。体育倉庫で、最初で最後のキスをして、幸せにしてくれるんって言った、かわいいマキちゃん。私のマキちゃん。尊くなんかない。マキちゃんは世界一かわいくて、世界一ばかな、どこにでもいる普通の女の子だったのに。
「ばか、」涙で震えた声。マキちゃんの、ばか。またバンドマンなんか好きになって。痛い目見たくせに。クリームソーダをぶっかけてやればよかった。違う。マキちゃんは悪くない。ただの言いがかりだって分かってる。だけど私には、私の青春には、それ以外何もない。恋と呼ぶにはあまりにも幼く、愛と呼ぶにはあまりにも一方通行な、偶像崇拝のようなこの思い以外には。

マキちゃん。どうか幸せになってください。マキちゃんの大好きな東京で、本当のマキちゃんを見つけられる人を、どうか、選んで。間違わないで、傷つかないで、最短ルートで幸せになってください。マキちゃんのことが、好きです。好きでした。私は、また何も言えなかった。

ラインの画面が滲む。「今日楽しかった、ありがと」予想通りのメッセージ。涙をマスカラごと強引に拭って、私は、そのつまらないメッセージを左にスワイプした。




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