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氏神以外ご利益はないですよ。(これ重要)

ゆるやかにつづき?

あのー、御朱印もらったりだとか

各地で神社仏閣に手を合わせるのは個々の自由ですが

そもそも氏神以外ご利益はないですよ。

やってることは「観光」です。
(観光という意味では全国あるいはメジャーな神社仏閣を回るのはよいと思いますけどね)

あ、仏様でいえば自分の祖先の墓地がある宗派以外は(以下同文)

突然ぽっと観光にいってそこの神社仏閣でぶしつけに、特に努力もしてないのにああしたいとかこうなりたいとか、臨時収入がありますようにとかあの人が健康でありますようにとか

それは、本気でかなってほしいとは思っていないことを願いますが。。(おそらくそうですよね?

そういう思い(「願い」は思いの中の一形態)が、旅先とか?で想起されるのは、いいことだと思いますよ。
それをかなえるための具体的行動につながるかもしれませんし。


あ、ちょっとみもふたもないこといいますけど
そういう、一個人の願いとかって地元の氏神様とか仏様にいってもかないませんよ。

かないませんよ、って断言しちゃいけないのかな?
そもそも10秒祈っただけでかなうわきゃないってのはオトナならわかると思いますが…

地元の氏神様、仏様のところにいってやることは現状報告です。
おかげさまで生きています、と。それだけ。
その報告をして、心を静める。地元の神社仏閣はつきつめればそれだけのために存在してるんです。

それだけのために存在している、だけでも超ありがたいことだ。

一個人の願いなぞかなわないのだとしたら、地元に参るご利益とは何か?

それは、その土地に「生かされる」こと。その一点のみ。
「生かされる」ことが最大のご利益なんですよ。

みなさーん、そのへんわかってますかー

なぜ地元じゃなきゃいけないのか?
それは、ただ単純に近いからです。近いとは、「縁」なんですよ。

近くの神仏って常に近くにいるわけでしょ?アタリマエだけど💦

観光地の神仏は一生に一度ぐらいしか近づかないでしょ?
前者のほうが縁が強いんです。

同様に、自分の祖先の墓がある寺、のある土地とかその宗派とはめちゃめちゃ縁があります。

我々は何か得体のしれない超越的なものに生かされており、神仏というのはその超越的なおのを擬人化したにすぎないのです。

(ここ、テストにでますよー笑)

その超越的なものっていうのと人間っていうのは呼応しあうんです。(これ、スピリチュアルとかオカルトではないですよ。ごくあたりまえの話で)

そもそも、我々の臓器を動かしてるのはその超越的なものなんですから。

だからヤバいんですよ(笑)生殺与奪ってやつです。

ただ、

瞑想とかしてその超越的なものにアクセスして呼応しあうのってなかなかハードル高い(らしい)から、代替手段として神仏がいるんです。(?言い方ちょっと失礼だが)


呼応っていうのはね。。ここからは賛否両論になってくるんだろうけど、仏教的なアプローチでいうと「結局一体である」ということなんですよね。

超越的存在と自分の顕在意識は地続きなんですよ。だから呼応するのはあたりまえなんです。

イメージとしては河口付近の川と海というか?そのへん、軽くしょっぱいですよね。
そういう感じ。

だってさ、どこにいるか?ってわからないじゃないですか、その存在は。
心ってどこにあるの?の問いと似てますよね。

説明は省略しますが、どこにいるかわからんのであれば一体化してると考えてもよいのでは?ということ。


もうひとつたとえをひくと、シュレーディンガーの猫?(だったかな?)と同じで、自分が見つめることにより世の中は変わっていくし、見つめなければ何も変わらないんです。

バタフライ・エフェクトもちょっと参考になるかな?

自分が右にいっても世界は変わるし、左にいっても世界はそのように変わるんです。

その「世界」っていうのは「超越的存在」も含むのね。


ちょっとごっちゃになっちゃうんですけど

生きていれば、神仏に手を合わせることができます。
神仏に対して、おかげさまで生活できています、と報告することにより、そして少しだけそこで心を静めることによりなんだかすっきりするんですよ。

神仏に対して、あれくれこれくれと願うと「不完全他力」になっちゃうんです。まぁがっつりではないにせよ、ほんのわずかばかり、神仏がうまいことやってくんないかな~って思っちゃうんです。するとどうなるかというと、100%の確率で「願い事したのにかなわなかった」という思いが醸成されます。

超越的存在に対する不信感です。これが醸成されるとどうなるか?
超越的存在って生殺与奪を握ってるんですから。。それが積み重なるととんでもないことになります。

前者のおかげさまで生活できています、とはつきつめれば「心臓動いてますありがとう」ということです。
超越的存在(の代替、擬人化としての神仏)は、心臓を動かしてるんです。これ、究極なんですよね。
心臓動かしてくれてマジありがたいしこれとまったらホントヤバい、っていう気持ち(これが「畏怖」)を持ち続ける必要があるんです。
いやホント、心臓止まらせられたら一巻の終わりなんですよ。夜入眠してその間に、不信感をもっている相手(超越的存在)に心臓止められたらいやじゃないですか?


あれ?なんか話が違う方向へ。。

この話の応用編書こうと思ったけれど、さわりだけ書いてやめときます。
ついてこれない人多いでしょうから…

自分の内臓とかを動かしている超越的存在があるということは、超越的存在ってがっつり!自分(というか人間)に介入してるということじゃないですか。
同様に自分(というか人間)も超越的存在にがっつり介入してるんですよってこと。(それが「呼応」)

超越的存在とはどこに存するか?はさっき書いたように、結局一体化してるんちゃう?と考えたほうが私は自然だと思っていますし、そういう考え方もあると思っといてください。

ということは、導かれる結論は、自分とは超越的存在そのものだってことです。
一部の宗教はそういうことをいってるんですよ。

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