自分で撮った写真の記憶が無くて決意したこと
携帯に大量に保存されている、娘の写真。
どれもこれも愛おしいわたしの大切な娘が写っている。
それなのに、だ。
自分の携帯フォルダに入っているから撮影者はもちろん自分なのだが、前後の出来事が思い出せずなんなら撮った記憶すらない。なにを残したくて撮ったのかも分からない。
夫はほとんど22時を超えて帰宅するので、娘の様子を聞かれたのが始まりで、その日の出来事を共有することがなんとなく最近のルーティーン化してきているのだが。
ここでもいざ話そうと思うと、何があったかを思い出せず「ん?わたし今日1日何してたっけ?」となることが多々。この事実は、毎日を大切にしているつもりだったわたしを少々落ち込ませた。
元々、子どもが大好きで待ち望んでいたわけではなかったわたし。夫はとても子ども好きで(保育士になりたかったらしい)、将来はたぶん、と思っていたもののそれはとっても漠然としていて全く景色は見えていなかった。
だから、妊娠が分かってからの変化を受け入れるのにも正直かなり時間がかかったし、妊婦である自分をあまり大切に思うことが出来なかった。
そのほかにも実母とうまく分かりあえなかったり、仕事の調整、つわり、義実家とのトラブル、妊娠後期にはお腹の中で命を落とすかも、と言われ緊急入院になったこと。
母子手帳には表紙の名前以外何も書いてないし、妊娠中何を考えていたのかもあまり思い出せない。
でも、もやもやとたくさんの言葉が生まれていて、心の中の言葉の墓場に沈んでそこにたくさんの何かがある気がする。
もう二度と来ない、1つの身体を2人で共有していた時間や、その時の私の気持ちをもっと大切にしてあげれば良かったなあ、と少し子どもが成長してきて思える余裕が持てるようになった。
元々何かに書きとめておくことが好きなタイプで、高校生くらいから手帳や日記に一言書いていたりしていたから、今思うと妊娠期間から一言でも良いから書いておけば良かったなあと後悔。
とても特別な期間だったのに、思い出せないのは悲しかった。
(正直、後からこう思うことはわかっていたけどそれでも無理だったのもわかっている。先刻ご承知の先刻ご承知。)
妊娠・出産・こどもって今の日本ではとってもセンシティブな問題で、簡単に言葉にすることもできなくて、誤解を生んではいけないと思って書くのですが、娘のことは本当に大切に思っていて愛してやまない宝物です。
ただ、命は綺麗事で育てられるものでもない、というのが事実だと思います。
事実に善悪があるのではなくて、それをわたしたちがジャッジして勝手に善悪をつけているだけ、と思います。
とまあ思っていたので(前置き長)、娘が産まれてからはとにかく毎日を大切に、携帯を置いて過ごしてきたつもりだったのだが、この有様である。
毎日少しずつ、グラデーションの色が変わるように成長し変化している娘との日々。気がつけば卒乳して、段々と抱っこしなくても寝るようになって、指でたまごボーロが掴めるようになっていたり、目があえばにっこりとしてくれるけど言葉は出てこない、うつ伏せが嫌いな、今はただの日常。だけどとっても特別でずーっと抱きしめていたい日々。
毎日を少しずつ書きとめて、ラベルを貼って、ふわふわと吹き飛んでしまいそうな小さな出来事をわたしの手元に集めておこう。そうして1つ1つ箱に詰めておけば、きっと数年後に箱を開いたときに、匂いや音や、その感触が思い出せる。(かもしれない)
わたしたちの毎日の少しの幸せをすくいとって、優しくて温かいものに包まれた日々になりますように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?