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「夜行」ー異界という視点ー3

 夫の言うことを頭で理解することはできても、あの部屋で美しい魚みたいに身をよこたえていた佳奈ちゃんを消し去ることはできません。それでは佳奈ちゃんを二度殺すことになると私はおもったのです。

藤村『夜行』

藤村について

 藤村は記憶だけで賀茂大橋あたりの情景を再現できるほど絵を描くことに長けている。しかし、成人してからは子どもの頃ほど描くことには興味はなく、「今は見るだけ」なのである。
 芸術とは何だろうか。第四夜で岸田は「もしも芸術家というものが隠された真実の世界を描く役目を果たしているなら、こんなに筋の通った話はない。けれども僕はそんな理性的で美しい説明を信じない。ー中略ー世界とはとらえようもなく無限に広がり続ける魔境の総体だと思う。」と語った。すると、芸術家が描くのは隠された真実を見つけると筋書きのわかりやすい世界ではなく、真実も嘘も、善も悪も区別されず混沌としている世界=異界からもたらされたイメージなのかもしれない。
 岸田が描いた魔境『夜行』という連作が人を異界に引きずり込む力を持っていたように、異界からもたらされるイメージがこの世に通用する形で表現されたときそれは絶大な力を持つ。同様に第二夜に登場したミシマの異界の力も死を成就させるほどの絶大なものであった。
 子どもの頃の藤村は、異界からやってきたイメージを熱心に描く芸術家だったのではないか。しかし、あるときを境に藤村と異界との繋がりは切れ、その能力も失ってしまった。彼女に残ったのは見たままを描写する力のみ。だからこそ「今は見るだけ」なのである。


異界へと去った記憶

 異界との繋がりがなくなるということは、彼女にとってとても意味のある記憶も異界へと去ったことも意味する。それでも、その記憶は異界から常に藤村に呼びかけている。
 異界へと去った記憶の呼びかけに応じて、藤村は無意識に「夜行―――津軽」の家に記憶の家を重ね、あるいは夜行列車の話題を出した。すでに異界の記憶を持たない彼女は何に突き動かされているかわからぬまま行動し、それゆえに夜行列車の話題を出したことも思い出せなかったのだろう。
 同様に、藤村が「まるで子どもの頃から一緒だったような親しみ」を長谷川に求めていたことも、その記憶の呼びかけに突き動かされたからかもしれない。藤村は児島にも「まるで弟みたいに感じられる人」と幼い頃から共に育ったきょうだいのような親しみを感じており、彼らが身近にいるときのみ幼い頃に感じた「貯水池の土手に長く伸びた影に感じていた」「生々しく感じられる淋しさ」は遠ざかっていくのである。
 一方で藤村は「子どもの頃から一緒だったような親しみ」はいずれ失われるものだとも感じている。長谷川の失踪に対する「彼女ならそういうことも起こり得る」と感じたのは、長谷川の謎めいた印象のみならず、「二人だけの甘い世界」は燃え尽きてしまうものと藤村の魂に刻まれているからだ。
 中心に暗い夜を秘めていたのは、藤村の方だった。藤村が言ったようにあの家は「私の夜の世界に建っている」のだ。

 子どもの頃、異界と繋がる力を持ち、暗い夜を中心に持つことになった藤村は、ふとした出来事をきっかえに、否応なく再び異界と繋がることになってしまうのだ。


燃える家の真実

 幼い頃の藤村にとって、佳奈は「気に入らない人間とは口もきかない子」で、周囲からの評価を意に介さない超然とした存在であった。つまり、社会に適応するための常識からかけ離れたところに存在していたのだ。
 そして、それは帰国して間もない藤村の自分に対する評価でもあった。子どもにとって一番身近な社会である学校のルールを気にかけない藤村もまた、社会的な枠組みから外れたところで生きていたのだ。
 ルールや評価など現実的な社会からかけ離れた存在だったらかこそ、佳奈=藤村は異界からのイメージを受け取ることができた。二人が絵を描いて過ごしたと言う、雑木林に囲まれた空き地に建った明るい一軒家は、日常から身体ごと離れて異界からのイメージを受け取るための特別な空間だったのだ。もしかしたら、その家は現実と異界の狭間にあったのかもしれない。
 そこで佳奈=藤村は、異界からのイメージを受け取り現実に受け入れられる形で表現するメッセンジャーとして完成していた。しかし、異界のメッセンジャーとなることは、現実には適応できなくなっていくということなのだ。現に佳奈=藤村は同級生から「嘘つき」と言われ、孤立していた。
 あのまま佳奈の言いなりに絵画教室に通わなくなっていれば、藤村の孤独はさらに深まり、登校できない状態となっていたかもしれない。藤村はその可能性に気づいていたからこそ、佳奈の言いなりになるのがイヤになったのではないか。

 人は一度完全な子どもとして完成する。藤村にとって異界のメッセンジャーである佳奈は、完成された子どもとしての自分だったのではないか。
 しかし思春期を境に身体にも心にも変化が訪れ、否が応でも大人へと一歩踏み出さなければならなくなる。いつまでも子どものままでは現実を生きることが難しいからだ。そして、大人になるということは子どもとして完成された自分が死を迎えるということも意味している。
 子どもであった藤村が、本来存在すべき現実を受け入れ未来を手にするためには、完成されたものを一度すべて壊すしかなかったのだ。

 そして、藤村は、子どもとして完成した自分=佳奈を消し去るためにあの家に火をつけた。
 「佳奈ちゃんが姿を見せなくなったのは、君が佳奈ちゃんを必要としなくなったからだよ」と夫は言ったが、佳奈は自然と消えたのではない。藤村が、成長し未来を手にするために強い破壊衝動をもって佳奈を消し去ったのである。
 子どもとして完成した自分を消し去ろうとする藤村の破壊衝動が、現実にはないあの燃える家として藤村の魂に刻まれたのだ。
 そして、子どもとして、異界のメッセンジャーとして完成された佳奈を消し去ることで、藤村の異界との繋がりは消えたのだ。

 しかし、藤村は夜行列車の中から見た燃える家をきっかけに、再び異界と繋がり始めている。
 藤村は、旅程やチケット、宿の手配も夫や児島に任せ、ノータッチで旅に出るのと同様に、自分自身の人生も人任せにしてボンヤリ生きていたのではないか。現実を生きるためとは言え、思春期を迎えたことによって絶大な力を失ってしまった藤村は、主体性まで損なってしまったのかもしれない。
 そんな藤村が人任せにせず自分の人生を主体的に歩むためには、再び異界と繋がることで違う次元から本来あるべき着地点を見つめ直す必要があったのかもしれない。
 そのために、藤村は日常から身体ごと離れられる特別な空間である津軽中里の家、つまり佳奈との甘い世界で、絶大な力を持った半身=佳奈を取り戻し、異界からのイメージを受け取ろうとしているのではないか。


児島の行方

 思春期に体験した甘い世界をもう一度味わいたい大人は意外にも多いように思う。「鬼滅の刃」無限列車編を始め、呪術廻戦0、ONE PIECE FILM REDなど少年誌の映画作品が年齢問わず大ヒットするのは、映像のクオリティの高さやストーリーの面白さのみならず、炭治郎や乙骨、ウタが思春期の甘い世界や全能感を呼び起こすからではないか。
 一方で、彼らは思春期の危うさも体現している。完成された子どもとして、彼らはときに痛々しいまでに死へ向かって突き進んでいく。死に向かって突き進むことでしか、彼らは完成した子どもの殻を破ることができないからだ。
 しかし、あまりに死に向かって突き進めば、ウタのように取り返しがつかない状態になることもある。

 児島は思春期の甘い世界を取り戻すために、まさに死に向かって突き進んでしまったのかもしれない。
 彼には藤村と似たような体験があったのではないか。彼もまた、中心に暗い夜の家を持ち、それを破壊することでしか大人になることができなかったのかもしれない。藤村の破壊衝動は彼女の記憶に影響を与える程度のものであったが、児島の破壊衝動は現実にまで影響を与えるようなものだったのかもしれない。例えば、彼は多くの女性の心を傷つけるような…。
 そして燃える家をきっかけに、彼も思春期の甘い世界を思い出し、懐かしさと淋しさが一気に押し寄せてきた。彼も暗い夜に建つ家で異界と繋がろうとしたのだろう。しかしそれは彼が今まで封じてきた破壊の記憶とも繋がり、成長のための強い破壊衝動の代償を今受け止めなければならないことを意味している。
 そして、同時にその代償を支払うことは、児島の死も意味していたのだ。
 津軽中里の暗い夜の家に消えた彼は、本当に異界へ去ってしまった。三内丸山遺跡で藤村の前に現れた児島は、すでに身体を捨て魂だけとなった姿だったのかもしれない。そのため、異界と繋がり始めている藤村にしか見えなかったのだ。

 藤村はどうだろう。彼女もまた、佳奈を殺してしまったという代償を支払わなければ、絶大な力を持つ半身を取り戻すことはできない。しかし、きっと彼女は自分の破壊の代償を受け止め、佳奈としっかりと結びつき、人生の終点まで自分の足で歩める女性となって戻ってくるのだろう。
 なぜなら、藤村が目指す家は燦然と輝いているのだ。きっと彼女の夜は明けることだろう。

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