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のぼせる我々のための『太陽の塔』

 森見登美彦の『太陽の塔』を最近読み返したので、少し思ったことを。

 『太陽の塔』の主人公は、水尾さんという女性にのぼせあがっている。水尾さんに理性では理解できない未知の魅力を感じ、あろうことか「水尾さん研究」まで始めてしまったのだ。
 これが付き合っている男女の間で起こっていることならまだしも、彼らの関係はすでに終わっている。にもかかわらず、主人公は水尾さんを追い回し彼女をひたすら研究しまくっているのだ。

 彼らの関係を終わらせたのは、主人公が水尾さんにクリスマスプレゼントとして贈った「ソーラー招き猫」である。
 水尾さんにとっては無駄なものでも、この「ソーラー招き猫」は主人公にとっては、太陽の塔をエネルギーに動きまわる猫のような水尾さんの象徴であったのかもしれない。確かに彼なりに水尾さんを思い浮かべながらこのプレゼントを選んだのだろう。
 彼は自分の水尾さんへの気持ちにのぼせるあまりに、水尾さんの乙女心へ気持ちを向けることができなかったのだけの愛すべき阿呆大学生だったのだ。けれど、いくらなんでもクリスマスプレゼントに「ソーラー招き猫」ってなめてんのかと私もちょっぴり思った。
 そして、水尾さんからも容赦なく「よけいなものが増えるのは嫌です」と凍り付くほど冷たい一言を浴びせられた。
 これはもしかしたら「現実の私をちゃんと見なさい」という水尾さんなりのメッセージだったのかもしれない。そう考えると、水尾さんもちゃんと主人公のことが好きだったのだ。

 凍てつく一言をもらった主人公は、「水尾さん研究」を始めた。そうして、のぼせあがって理性では理解できないでいた水尾さんの魅力にきちんと気づいたのである。
 彼女は猫である。ふわふわしてかわいらしい一面もあれば、急に心の中を見抜こうと邪眼を光らせる恐ろしい一面も持っている。植村譲が持っている邪眼を、世の女性はみんな持っている(ように見える)のだ。
 ふわふわしてかわいらし一面も、邪眼を光らせる恐ろしい一面も一人の水尾さんという人間の魅力としてきちんと理解することが彼には必要だったのだ。

 そうして、水尾さんを懸命に理解しようとした人だけが、彼女の夢の中へ訪れることができるのだ。
 しかし、それでも彼女のとなりに再び立つためには、「冷たい一言に傷つかなくてもええじゃないか」「このままでええじゃないか」「男の友情があればええじゃないか」と誘惑してくる自分をかき分け彼女に向かって走らなければならない。
 のぼせるほど魅力を感じる人の手を取るためには、ときには「ええわけあるか!」と自分に言い聞かせなければならないものかもしれない。

 そして、主人公は飾磨をはじめとした友人や良きライバルにも恵まれた。彼らがいたからこそ、「水尾さん研究」は大成したのである。そうでなければどこかで心が折れ、あるいは本当にストーカー法違反で捕まっていたかもしれない。

 『太陽の塔』は意中の女性(男性)に思う存分のぼせよ、しかるのち相手の魅力をきちんと理解し関係を深めよという、恋にのぼせる我々へ向けた物語だったのかもしれない。

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