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「夜行」ー異界という視点ー5

 もう二度と長谷川さんに会うことはないだろうと思った。しかし私には、十年ぶりに接した彼女の声や仕草をはっきりと思い浮かべることができる。彼女には彼女の歳月があり、私には私の歳月があった。

大橋『夜行』


大橋について

 「君は長谷川さんのことが好きだったんだろう」「それはみんなそうでしょう」「……そうだね。もちろんそうだ」
 この中井と大橋の会話から、大橋は長谷川に惹かれていることを自覚しながら、彼女への想いを明確に恋心だと定められないでいたことがうかがえる。長谷川失踪以前も、おそらく大橋は長谷川との距離感や関係性、あるいは長谷川という存在そのものを自分の中にどのように定位すればよいかわからなかったのだろう。
 大橋は自分の中に長谷川への想いも関係性も定位することができなかったからこそ、「まるで手をつなぐような気持ちで、彼女の姿を見ていたというのに」長谷川の手を取れず、失ってしまった。

 大橋は、解決されることのない失踪事件をどのように受け止めればよいかも定められなかったに違いない。想いも告げれず、関係も築けなかった後悔は、岸田を失った田辺の絶望と同様肉体と魂が切り離されてしまうほど深いものだっただろう。
 そうして、大橋は長谷川を失った世界に自分自身すらもどのように定位すればよいのか見失ってしまったのではないか。大橋が「祭りが終わるのを待っていた」のは、まさに長谷川を失った現場である鞍馬の火祭りの中にいる自分を定められなかったためだろう。


「地球は青かった」

 ガガーリンの「地球は青かった」という言葉について、長谷川はじつは地球の背後に広がる「底知れない虚無」を語ったのだと説明し、「世界はつねに夜なのよ」と呟いた。長谷川は、世界はつねに底知れない虚無であり、私たちはその中を生きているということを言いたかったのかもしれない。

 人は誰しも定まったレールの上を歩んでいるわけではない。親が決めたレールの上を歩くという言葉もあるが、しかしそれとて安泰な人生が送れるとは限らない。
 自分がどのような者になり、どのような生き方をしていくか見えない世界は、確かに底知れない虚無のようにも思えてくる。
 しかし、私たちはその虚無の中に自分が何者なのか、どのように生きたいのか、そのために何をすべきかを、曲がりなりにも定めながら生きている。何もない虚無に自分を定位することで、私たちは初めて自分らしく生きていくことができるのではないか。

 虚無に自分自身を定位できず、仮面をかぶったり、人に合わせたり、あるいは人任せにしたりする人生を送っていると、≪病みに追いつかれる≫。しかし、もしかすると現実とは異なる次元の世界=異界へ≪病みに行く≫ことで、明ける夜もあるのかもしれない。

 「曙光」の世界におけるかつての岸田も大橋同様に、長谷川に惹かれつつも彼女への想いや、彼女との関係性を定められないでいた。すると、闇の中でジッと自分を見つめてくる怪しい白い人影の気配を感じ、長谷川に取り殺されるような夢を見たのである。もしかしたら、異界へ行く代わりに夢が異界からのメッセージを岸田に伝える役割を果たしたのかもしれない。
 異界からのメッセージを意味のあるものとして受け止められた岸田は、夜明けに長谷川と再会したことで彼女への想いを定位できたのではないか。その一瞬を切り取って形にしたものが「曙光―尾道」なのだ。
 三年後、鞍馬の火祭りにて長谷川を見つけられた岸田は、自らの想いだけではなく、長谷川との関係性を定位すべく彼女に歩み寄った。きっと岸田は、長谷川の手を取ることができただろう。
 そして、虚無である世界に長谷川との関係性を定位していく一瞬一瞬を『曙光』―――ただ一度きりの朝と呼んだのだ。


大橋の定めた歳月

 十年間ずっと長谷川のいない世界に自分を定位できないでいた大橋も、英会話スクールの四人の仲間と同様に、次元の異なる世界へ行くことでしか夜明けを迎えることができない。
 つまり、大橋は次元の異なる世界=「曙光」の世界で夜明けを迎えるためのプロセスを踏む必要があった。しかし、切ないことにそのプロセスは長谷川そのものを取り戻すことではなかった。
 大橋が異界を利用して長谷川を無理に取り戻そうとすれば、ゴーストの絵の作者のように悲惨な末路を歩むことになっただろう。

 大橋は、踏み間違えることなく「曙光」の世界で自分に必要なプロセスを踏むことができた。それは長谷川と再会し、彼女が過ごしてきた十年と『曙光』のルーツを辿ることだった。
 温かな光に包まれた長谷川の十年という歳月を実感することで、解決されることがなかった失踪事件に、大橋なりに幕が引けたのだろう。
 長谷川が現実に存在しないのは「私(大橋)の目から隠されているからにすぎ」ず、今も岸田と「岸田サロン」で温かな光に包まれて暮らしているのだ。大橋は虚無に長谷川の存在と自分の彼女への想いを定位した。それは同時に「もう二度と長谷川さんに会うことはないだろう」という事実を彼が実感した瞬間でもあっただろう。すると、ようやく賑やかな朝の音が大橋の耳に届いたのである。

 これから大橋は、目には見えない長谷川との関係ではなく、彼と同様現実を生きる人々との関係を定めていかなければならない。だかこそ彼は「十年ぶりに鞍馬に集まった四人の仲間たちのことを想った」のだ。
 最後に大橋は、電話に出た中井に向かって「おはようございます」と言った。それは、大橋と四人の仲間たちの関係性の夜明けを告げる言葉であると同時に、大橋が虚無である世界に対して自分を定めるために発した言葉だったのかもしれない。


『夜行』と異界

 『夜行』の異界は、いったい何のために大橋たちの前に現れたのだろう。
 『夜行』における夜は人の心に巣くう≪病み≫ではないかとすでに論じた。大橋を始め『夜行』に登場する人物には、本人自身は無自覚、あるいは無頓着であったが、心に≪病み≫が巣くっていた。その≪病み≫が、親しい他者との関係性や自身の生き方を歪ませていた。
 その歪みを正すために現れたのが、『夜行』の異界だったのではないか。
 彼らは旅の途中で≪病みに追いつかれた≫ことにより、異界に呑まれた。異界は、現実とは違う次元から改めて自身を顧みる視点を与えてくれる。それは、単に現実で起こるできごとに淡々と対処するだけでは見えてこない景色を見せてくれることだろう。
 しかしその一方で異界は、私利私欲に負け間違ったプロセスを辿ると、ゴーストの絵の作者のように命を落とす危険性もはらんでいる。
 異界からもう一度今までの自分の生き方を見つめ直し、今まで受け止められなかった自分を、虚無に、世界に定位することでしか、夜明けを迎えることができるのだ。

 実は、大橋以外の登場人物の結末はよくわかっていない。しかし、「何ということもない平凡な旅」から「誰もが無事に帰ってきた」と大橋は語った。肉体は平凡な旅を体験していたが、それを異界の旅という意味あるものとして魂が受け取ったと言うことなのだろう。
 岸田が描いた『夜行』と『曙光』が表裏一体であるように、登場人物たちが『夜行』の旅の思い出を振り返ったとき『曙光』として目に映る。私が『夜行』に魅入られるのは、その切なくも美しい光に自分の青春が共鳴しているからなのかもしれない。

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