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シャーロック・ホームズの凱旋-ただの人へ-

 『シャーロック・ホームズの凱旋』を読んでちょっと思ったこと。ネタバレありです。


スランプが招くもの

 「自分がスランプだから、ホームズと一緒にスランプから出ようとしたんです」

読売新聞オンライン

 読み始める前、ホームズがへっぽこ推理を披露しまくってはワトソンを振り回し、冒険しているのか怠けているのかわからないほんわか小説だと思っていた。
 しかし、断じてほんわかなだけの大作ではない。物理的な厚み以上の内容の濃さ。
 物語に引き込まれるほど、現実とファンタジーの境が曖昧になり混ざり合いわけがわからなくなっていく。我々の世界のホームズ、ヴィクトリア京都のホームズ、そしてロンドンのホームズ、すべてが曖昧に溶け合っていく。現実の境目からファンタジーが顔を出そうとしているのではないかと不安に駆られた頃、著者森見登美彦氏は物語を通して我々読者の現実とファンタジーの境を壊そうとしているのではないかと戦慄するのだった。
 しかし、これほどリアルに現実とファンタジーが溶け合っていく様を描写できたということは、すなわち森見登美彦氏自身がそれほど曖昧な世界を体験したということでもあるのかもしれない。

 人によってはスランプは職業生命を脅かすものである。ともにスランプを体験していたホームズと登美彦氏は生命の危機を目の前に、現実が崩れていくような恐怖と不安に苛まれていたのではないか。すると、それは自分と世界との結びつきが損なわれるようなぞっとする体験だっただろう。
 しかし、職業生命がかかった危機は、時として<東の東の間>の向こうにある幾層にも折り重なった異界と関わることでしか解決できない難解な謎なのである。その謎に取り組むホームズやワトソン、ひいては登美彦氏を前に、我々読者はただ「見守ることしかできない」のである。
 それが読者の役割であり、読者は読者自身の物語を生きていかねばならない。


名探偵からただの人へ


天から与えられた才能はどこへ消えた。

シャーロック・ホームズの凱旋

 ホームズは天賦の才に恵まれていた。真相を見抜く推理力だけではない。ホームズが見抜いた真相だけが真相たり得る―――つまり推理に沿って現実を引き寄せるこの世を超越した力をホームズは持っていたのである。
 ホームズの能力は、この世のものではない。あまりにこの世の肩書に縛られれば力は弱まる上に、現実的な手段や努力では回復することができない。
 ホームズは十二年前に一度不思議な現象を拒絶し、謎を放棄してまで「名探偵」であることにこだわった。そして現実な手段で解決できる問題にだけ取り組んできたのである。
 誰の目から見ても―――ホームズ自身の目から見ても―――ホームズは成功しているように見えただろう。しかし、「名探偵」としての力を失えばホームズは何者でもなくなってしまう。そして、「名探偵」の相棒として記録係を務めてきたワトソンにとっても、同様に自分が何者かを見失う体験は訪れた。
 ホームズとワトソンは肩書に縛られずただの人に戻って、自分自身を見つめ直す必要があったのだ。

 「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」と言う言葉がある。人はいずれ、完成された特別な存在から、死という決まった終結へ向かって生きる無力なただの人であることを自覚しなければならない時がくる。
 その荒涼と広がる闇のような人生を歩んでいくためには、もちろん現実的な役割を果たしていくことも大切である。しかし、現実的な役割だけが自分たらしめていると勘違いすれば、それを失ったときその人は自分は何者かを見失い、不確かな存在のまま生きていくことになる。
 <東の東の間>に生じた綻びは、何者かを見失った人々が自分自身の物語を紡ぐために広がる余白でもあったのかもしれない。


シャーロック・ホームズの凱旋

 シャーロック・ホームズの凱旋は、ジョン・H・ワトソンの凱旋でもある。

シャーロック・ホームズの凱旋

 物語の中で、ワトソンの心境の変化と共に「シャーロック・ホームズの凱旋」は様々な意味に変化していった。
 「名探偵」として返り咲くこと、異界で「名探偵」として復活すること、「名探偵」という名を一度捨て新しくやり直すこと。
 ワトソンは<東の東の間>の綻びを通り抜けた先の異界で、一人で自分という難解な謎に取り組む孤独なホームズと出会うことで、ようやく「名探偵」という肩書に隠れていた弱さや孤独を抱えるただの人としてのホームズを認識した。
 ただの人としてのホームズを認識し受け容れたことで、ようやくワトソンは本物の「ホームズの相棒」となったのである。
 そして、ワトソンのホームズ受容体験は、ホームズにとってもただの人としての自分自身を受容する体験であったのではないか。この受容の体験を通して、二人はようやく心の底から結びつき、それが真の「シャーロック・ホームズの凱旋」へと繋がったのだ。

 しかし、ホームズは異界での体験を忘れてしまった。ただの人として自分自身を受容する体験は、覚えているからエライわけではない。人は忘れることができる生き物でもある。ただの人であることを受け容れることは痛みも伴う。その痛みも忘れることで自然と回復できるだろう。
 そうして、ワトソンの「シャーロック・ホームズの冒険」の中のキラキラとした思い出にたまに哀愁を感じる。そのくらいが健全なのかもしれない。

 ホームズの心の痛みを垣間見られるのは、相棒であり記録係であるワトソンと、「見守ることしかできない」我々だけに与えられた特権なのだろう。

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