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「夜行」ー異界という視点ー2

第二夜 奥飛騨

 そうして僕の肩に頬をつけて目を閉じました。こんなふうに身体を寄せ合うのは久しぶりのことだ僕は思いました。

武田『夜行』

武田について

 一見繊細そうな武田は、相手が年上であっても臆せずに懐に潜り込めるような「図太い」「甘え上手」である。
 しかし、彼自身が「踏み込んでしまえば、僕も増田さんのように-中略-美弥さんをコントロールすることができなくなるだろう」と言っていたように、あまりに心の距離が近すぎると相手に強い感情を抱かざるを得なくなることがわかっている。そこで彼は、自分から感情を切り離すことによって、たとえ表面上だけでも他者と上手に付き合うことにしたのだ。
 武田は「旅仲間に興味を惹かれますね」と語りながらも、一緒に鞍馬に出かけたことがある長谷川の顔すらはっきりと思い出せなかった。これは表面的な関係ばかり整えており、「より深く踏み込む気はさらさら」なかったためではないか。
 そして、武田は関係を表面的に整える「役まわりもきらいではない」。むしろその役まわりは彼にとって重要なポジションのようだ。だからこそ、険悪なムードをうまくとりなせない瑠璃は「なんの役にも立たない」し、「素直に美弥さんのご機嫌をとることができない」増田はだらしないのである。


歪んだ関係

 旅仲間である武田、増田、美弥、瑠璃はありふれた若者グループである。武田が関係を表面的に整えているだけあって、最初は若者たちがケンカしながらも旅をそれなりに楽しんでいるように見えた。しかし、読み進めていくうちに実は表面的には見えない隠れたところで関係がひどく歪んでいることが明らかになっていく。

 まず武田と美弥は、増田に隠れて何度か会っている特別な関係であることがにおわされている。旅の途中、美弥は齧りかけお煎餅をごく自然と武田に手渡しており、二人の関係の親しさがうかがえる。
 それにしても、二人の増田への後ろめたさが感じられない。武田にとって美弥との関係は感情を排除した割り切ったものだったのだろう。普段から相手と上手に付き合うために感情を切り離している武田にとっては、美弥と関係はごく自然なものだったのかもしれない。しかし、そうして本来感じるべき罪悪感や葛藤を関係から排除してしまうことは、目に見えない深いところでの結びつきを大きく傷つける行為なのではないか。現に彼は、職場でもプライベートでも世話をしてくれている増田の恋人と密かに会うことで、自分と増田の結びつきをないがしろにしている。
 武田は目に見える表面的な部分だけ整え、目に見えない深いところでの結びつきを大切にできず、関係を歪めてしまっているのだ。

 一方「平和を愛する男」である増田は、今まで通りの関係を保つために武田と美弥の関係に気づきながらも、見て見ぬふりをしていたのではないか。
 あてつけのために増田の前で内海に甘える美弥は、倫理的にどうであるか、相手がどう思うかよりも、感情のまま行動することを優先する女性である。このような台風のように激しい感情を持つ美弥と長く付き合うために、台風をコントロールするのではなく、通り過ぎるまで耐えることを増田は選んだのだ。

 そして、瑠璃は美弥が「惚れているな、あれは」と言ったように、増田に好意があるようだ。理性的な彼女は武田とは違い、踏みとどまったことだろう。しかし、普段は理性的で、美弥の言いなりになっている気の弱い瑠璃は、増田を想うときのみコントロールや理性を払いのけることができる。
 また、瑠璃だけは感受性が強く、歪んだ関係性が異界から危険なものを招くことがわかっていたのかもしれない。台風のように激しい感情で周囲を振り回す美弥と喧嘩したのは、増田への好意だけではなく、歪んだ関係を正し死の気配を遠ざけようとしたからではないか。
 しかし、瑠璃のように言葉で注意するだけでは、異界にひらかれてない武田や、美弥、増田では理解できないのである。瑠璃からすれば、そんな三人は「物事を歪めるだけ歪めておいて、他の誰かが何とかしてくれないかな」と思っている無責任な大人に見えたのだろう。


ミシマの予言

 ミシマは、人の顔を見ることによって未来を予言する能力を持っている。この能力は急死した彼女の夫の死相を見抜くことによって発現した。つまり、ミシマの能力はあの世=異界のものであり、彼女の予言は異界からのメッセージとも言える。
 ミシマは、武田、増田、美弥、瑠璃の四人が見える部分だけ整えられた関係性であることを見抜き、見えない世界である異界にひらかれていない人たちであるという意味で「みなさんみたいな人には面白くないはなしかもしれませんけど」と言ったのだろう。

 ミシマは四人のうち「お二人の方にシソウが出ています」と予言を残した。これは歪んだ関係であるこの四人がこのまま進めば死にも値する痛みを体験するだろうという異界からの警告だったのかもしれない。
 「ミシマさんが未来を予言したのではなく、ミシマさんの予言を成就すべく夫は死んだのではないか」という武田の思いつきは、異界からのメッセージを無視することはこのまま異界に呑まれるだろうという予感だったのではないか。だからこそ、ミシマは「東京へお戻りなさい」、つまり現実へ引き返すように助言したのだ。

 武田は飛騨高山の喫茶店に飾られた銅版画「夜行―――奥飛騨」に描かれた女性に美弥の面影を見てぞくりとする。そしてそのとき「僕らに続いてもう一人、得体の知れない何者かが喫茶店に滑り込んできたように感じられた」。これは、ミシマが予言によってもたらされたもの、つまり死に値する痛みが武田の懐に滑り込んできたことを示唆しているように思える。
 その痛みは、美弥が持っているような強く激しい感情や葛藤の塊かもしれない。それは武田が今まで自分から切り離してきたものであり、それが懐に滑り込んできたということは、武田がコントロールしてきたものは今までのようにコントロールできなくなっていくということでもある。つまり見える部分だけ整った関係性が、武田のコントロールを離れていくことを意味しているのだ。

 奥飛騨に向かう車の中で増田の「眠らないでくれよ。君が眠ったら、俺まで眠くなる」という忠告に反し、武田は「なんだか気が抜けちゃいましたね」と言い、微睡む。その微睡みによって武田の意識が緩んだことで、四人を乗せた自動車という密室はコントロールを失ったのである。そうして武田が表面だけ整えてきた関係性は、自動車事故という形で大破したのだ。


瑠璃が引き受けた痛み

 ふいに耳元で誰かの悲鳴が聞こえたような気がして微睡みから覚醒した武田は、不思議な光景を目撃する。後部座席で眠っているはずの美弥がトンネルの脇に立って武田に手を振っているのである。
 このとき、美弥はミシマの予言によってもたらされた痛みによって、見えている美弥と武田にしか見えない美弥に引き裂かれたのではないか。
 彼女は激しい感情によって周囲を振り回すことを何とも思っていないようだった。彼女は恋人である増田以外の男性に甘え、武田と同様に本来大切にすべき増田との結びつきを傷つけてきたのである。
 そしてミシマの予言によってもたらされた痛みによって、それがどれだけ増田を傷つけ、自分を穢す行為であったかを突きつけられてしまったのだ。
 美弥は増田を傷つけた罪悪感と穢れた自分への自己嫌悪によって、見える美弥と見えない美弥に引き裂かれてしまった。そして見えない美弥はトンネルの向こう側にある異界に引きずり込まれてしまったのだ。
 見えない美弥が武田に手を振っていたは、彼にも同じことが起こるという合図だったのかもしれない。

 増田だけは、ミシマの予言に含まれていない。ミシマは増田に向けてのみ「何も心配してませんよ」「顔を見れば分かりますから」と言った。また、長刀を一閃するようなミシマの異様な視線を浴びたのも、後部座席の武田、美弥、瑠璃の三人だけだった。
 なぜ増田は、異界に呑まれることなく密室から抜け出すことができたのだろう。もしかすると増田は、彼自身の穢れも美弥の穢れも呑み込み、目には見えない深いところで美弥と結ばれることを望んでいたのかもしれない。そのために、台風のように激しい美弥の感情に耐えてきたのだ。
 美弥もまた、増田が深く自分を思ってくれていたことをどこかで気づいていたからこそ別れなかったのかもしれない。また、見える部分だけ整えることに終始していた武田にとっては、増田の目に見えない耐え忍ぶ戦いも、増田と美弥が離れない理由も、理解できないものだったのだろう。

 そして、武田も、表面的な関係を作り出し深いところでの結びつきを無視してきた自らの行為が、どれほど罪深いものであったかを突きつけられるときがきた。
 増田や美弥が消えた客室で、武田は長谷川についてぽつりぽつりと語った。旅仲間が消えただけではなく、瑠璃の用心深い一面が長谷川を連想させたのかもしれない。
 一方向かい合う瑠璃には、今までの緊張の強い気弱な女性の面影はない。彼女は美弥のように懐にスッと滑りこんでしまいそうな面持ちで、長谷川のように鋭く武田の「無責任」な一面を見抜いてくる。瑠璃は様々な表情で「物事を歪める」武田の罪深さをあばき、彼に穢れを突きつけてくるのである。
 最初こそ武田は「自分の残酷さというものを手にとって冷静に観察しているように感じ」ており、自分の穢れを他人事のように捉えていたが、目の前で苦しんでいる瑠璃を見て、ようやくその痛みは自分が受けるべきものであることに気づいたのではないか。
 瑠璃が痛みを引き受けて消えることで、きっと表面的な関係を整え深いところでの結びつきを傷つけてきた武田は死んだのである。
 最後に武田は美弥と身を寄せ合う。その美弥が、武田が今まで自分から切り離してきた美弥が持つような強く激しい感情や葛藤の塊だったとすれば、彼は今までの穢れを呑み込み、相手により深く踏み込むときに生じる感情や葛藤を懐に抱え込む決心をしたとも捉えられる。
 表面的な関係を超えて深く結びつくためには、相手を受け入れるだけでなく、相手からも受け入れられなければならない。そこには強い感情や葛藤が生じやすいものである。しかし、その強い感情や葛藤から逃げることなく向き合うことでしか、身を寄せ合うような血のかよった温かな関係を築くことはできない。
 瑠璃が痛みを引き受けることによって、武田は深い結びつきを大切にできる男性へと「人間として大きく」成長したのである。

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