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「夜行」ー異界という視点ー4

第四夜 天竜峡

 岸田を失ってからというもの、自分がいるべきでない場所にいると感じてきた。目に映るものが自分の心に届かなかった。その理由がようやく分かった気がした。東京や豊橋で過ぎていった日々は、走り続ける列車の窓に映った夢に過ぎなかったのだろう。

田辺『夜行』

田辺について

 大橋が田辺と出会ったとき、彼はすでに学生を卒業していた。その割に定職についている様子はなく、友人と立ち上げた劇団とアルバイトで生計を立てていたようだ。お世辞にも安定した生活とは言い難く、さらに「劇団の内紛やら借金やら両親の不和やら」が重なり、暗澹たる日々を過ごしていた。
 しかし、「外見は豪快そうだが繊細なところもある」田辺には、そのような辛い現実を自ら乗り換えられるほどの力はなかったのだろう。暗澹たる日々は田辺の心を蝕み、彼は眠れぬ夜を過ごすこととなった。

 そんな田辺にとって、岸田と「岸田サロン」は心の拠り所であったのだろう。「真夜中の世界に宙づりに」された「岸田サロン」は現実から切り離された特別な場所であり、そこには特別聞き上手である岸田がいる。その特別な場所で、特別な聞き手を相手に語ることで、田辺は辛うじて現実で踏ん張り、暗澹たる日々の中で自らの役割を果たすことができていたのである。


喪失と絶望の物語

 田辺と同様、佐伯も岸田と「岸田サロン」によって、辛うじて現実につなぎ止められていたのだろう。佐伯は新興宗教団体の手先として詐欺師まがいの仕事をし、空々しいほど陽気に振舞う反面、不眠症に悩まされる弱さを秘めていた。
 しかし、田辺のように「相手に自分が投げつけた言葉を見ている」人間は佐伯の繊細さに気づけない。言葉という現実的な手段や、詐欺師まがいの佐伯の行いを善悪で峻別する現実的な秩序によらず、佐伯の話に真摯に耳を傾け、「佐伯君のいうことは、いつも一理あるよ」と認められる岸田だけが、佐伯の弱さを見透かし、癒し、現実につなぎ止めることができるのだ。

 一方の佐伯も実は「相手に自分が投げつけた言葉を見ている」人間なのだ。彼は、岸田の作品である『夜行』に対して「百鬼夜行の夜行だよ。岸田の描いた女はみんな鬼なのさ」ともっともらしく言った。自分こそが岸田の唯一の理解者であるという驕りがあったのだろう。
 しかし彼は「しばらく絵のことは忘れて旅に出ないか」と言ったように岸田が絵を描かなくてもよかったのだ。それは、描くことで自らの魔境を表現しようとしていた岸田を本当に理解していると言えるのだろうか。

 「君の孤独を理解しているのは俺だけではないか」という強い嫉妬心を持つ田辺も、佐伯同様の驕りがあったに違いない。
 岸田の気持ちを悟っているという驕りこそ田辺と佐伯の魔境なのだ。かれらは、岸田を見ているようで、実は岸田へ投げつけた自分の言葉を見ていた。つまり、岸田への強すぎる想いは彼らの独り相撲だったのだ。

 彼らが独り相撲をとっている間に、岸田はあの世へと旅立った。それは彼らにとって強い喪失だけでなく、唯一の理解者であるはずの自分ですら岸田の死を止められなかったという強い絶望を与えたのではないか。
 彼らは自らの魔境によって、❝岸田の理解者でありながら、岸田を死なせてしまった❞という喪失と絶望の物語を生きることになったのだ。この辛い物語は繊細な彼らの肉体と魂を切り離すほど強いダメージを与えた。
 肉体と魂が切り離されると、「目に映るものが自分の心に届かな」くなる。つまり、現実で肉体がどれほど貴重な体験をしたとしても、意味のあるリアルな体験として魂まで届かなくなるのだ。

 再び肉体と魂が結びつくためには、自らの魔境に気づき、喪失と絶望の物語の呪縛から抜け出さなければならない。
 そのために、田辺と佐伯は、秘境を走る列車という現実から離れた特別な場所で、特別な聞き手=女子高生を相手に、岸田との思い出を語る必要があったのだ。


岸田が見つめた魔境

 「岸田は自分の作品について説明することを好まなかった」が、佐伯には「絵の中の女を出現させる物語」を繰り返し語った。自分こそ岸田の唯一の理解者であると驕っていた田辺にとって、自分が知らない岸田の一面を佐伯が知っていたことは、ひどく屈辱的なことだっただろう。
 田辺は岸田から直接、「田辺君なら分かってくれるだろう」と、「僕の描く風景が魔境」であると語られていたからこそ、佐伯が語った「岸田は妄想の女に出会うために絵を描いていた」という事実は受け入れがたかったのだろう。

 しかし、田辺は佐伯の岸田との思い出を聴き、岸田との思い出を辿ることによって、自身では理解し得なかった岸田がいたことを実感していく。そして、「世界とはとらえようもなく無限に広がり続ける魔境の総体だと思う」「世界はつねに夜なんだよ」という言葉の正しい意味をようやく理解し、岸田が見つめていた魔境へ到達することができたのではないか。
 岸田が見つめてきた魔境と、亡くなった岸田の頬に微笑が浮かんでいた思い出が結びつき、田辺は岸田が命を削って作品を作ることが彼にとっては幸いであったことを、心から実感したのである。それはずっと喪失と絶望の物語を生きていた田辺にとっての救いとなった。
 救われたからこそ「俺は芸術的な素養もなくて、君の作品を愛する資格はないのかもしれない」と自分が岸田の作品を持つほど岸田を理解できていないこと、つまり岸田への想いが独り相撲の魔境であったことに気づいた。そして、「俺はつねに君を尊敬してきた。たとえ長い夜に辿り着くのが魔境であるとしても。君と過ごした夜のような日々はもう二度とないだろう」と岸田の見つめた魔境と岸田の死を受け止められたのだ。
 本当の意味で岸田を理解できたからこそ、田辺は女子高生を岸田を食らった恐ろしい鬼ではなく、「岸田が魔境を旅して出会った鬼」という愛おしいものと見なせたのだ。そして、おそらくこの鬼と列車の終点まで行くことこそが、田辺にとって肉体と魂を結びつけ、現実を生きていく物語を作り出すことに繋がるのだろう。

 一方、女子高生を岸田を殺した鬼と見なした佐伯はどうなったのだろう。
 彼は最後まで自らの魔境から醒めることはなかったのではないか。彼は間違った手段で手に入れた岸田の作品を手放すことなく、おそらく最後まで自分こそが岸田の作品を持つ資格があると驕り、喪失と絶望の物語から解き放たれることなく列車を降りた。
 列車を降りた佐伯は死人のような顔をしていた。

 佐伯は、かつて「伊吹山の三修禅師、天狗の迎えを得る話」、極楽へ旅立つことを願った僧侶が魔境から醒めることなく息を引き取った物語を語った。
 奇しくも佐伯は僧侶の格好をしていた。これは、彼が禅師と同様自らの魔境から醒めることなく死後の世界へ旅立つことを意味しているように思えてならない。


顔のない女

 岸田の作品に登場する顔のない女は、佐伯が言うとおり「岸田の描いた女はみんな鬼」であり、「岸田の魔境で生まれた怪物で、最後には絵から抜け出して岸田を喰っちまった」のだろうか。

 『夜行』には「夜に追いつかれる」という表現が度々用いられている。
また、同様に≪暗室≫は大切なキーワードであり、夜や暗室から連想するのは≪闇≫である。
 闇は、心の闇、闇深いという言葉に代表されるように、人の心に巣くう病やゆがみを表現するときに用いられる言葉でもある。すると「夜行」とは≪病みに行く≫、「夜に追いつかれる」は無視してきた≪病みに追いつかれる≫とも言い換えられるかもしれない。
 多かれ少なかれ、人はそれぞれ病みを抱えているものかもしれない。『夜行』に登場した人々は、否応なく自らの病みと向かい合い、眠れぬ夜を過ごす必要のあった人々なのだろう。

 岸田も病みを抱えており、眠れぬ夜を過ごす必要があった人物である。彼もまた、長谷川への強い想いから生み出された魔境にとらわれていた。その魔境は岸田の病みであり、その病みを目に見える形に具現化したのが顔のない女ではないか。
 岸田の病みによって生まれた女には顔がない。顔がないことが、どのような病みをも打ちしだす幅を生み、女には人の様々な病みが映りこむこととなった。それぞれの物語に登場した人物が、顔のない女に見出したのは自らの病みだったのだ。
 女に映し出された病みは、肉体の病のように切り離したら、あるいは消えてしまえば治ったことになるのだろうか。

 『天竜峡』では、女子高生が田辺や佐伯、岸田の病みを映し出した顔のない女として具現化されているように思う。女子高生を「岸田を殺したのはその女だ」と拒絶した佐伯はどうなったのだろう。
 田辺は、自らの病みを映した女子高生を愛おしいものとして受け入れた。病みを呑み込むことでしか、現実の体験を心に届かせることができない人もいるのだろう。
 夜は…病みは、吞み込まなければ追いついてくる。「世界はつねに夜」なのだ。『夜行』に登場した人々は、辛くとも病みを呑み込み魂のうちに保有することでしか、夜明けを、曙光を迎えることができないのである。

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