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『有頂天家族』の弁天が生きる物語

 『有頂天家族』の弁天について思いついたこと。

弁天とは

 「狸であったらだめですか」
 「だって私は人間だもの」

『有頂天家族』 第一章 納涼床の女神

 『有頂天家族』は、狸、天狗、人間を巡る物語である。そして、そのうち人間代表として登場するのが弁天である。
 しかし、弁天はただの人間ではない。如意ヶ嶽薬師坊(以下、赤玉先生)に見初められ、手取り足取り天狗教育をほどこされた。その結果、彼女は天狗への階段を勢いよく駆け上り、天狗として孤高の地位にあった師である赤玉先生を踏み台に高く高く舞い上がった。
 ❝弁天❞と名乗り始めた頃の弁天は、すでに人間ではなく神に近しい力を持ち、かつて赤玉先生が座していた孤高の地位をほしいままにしたのであった。
 それでも、弁天は「だって私は人間だもの」と口にする。主人公、矢三郎も弁天を語りの中で「天狗でも狸でもない、ただの人間である」と紹介する。天狗よりも天狗的になろうとも、彼女は今尚「自分は人間である」というアイデンティティを持ち、どうしたって人間代表の登場人物なのである。

 人間とは現実を生きる凡庸なものである。
 弁天になる前―――人間として生きていた頃の弁天は、鈴木聡美というありふれた名を持つ、あくまでそれなりにかわいい平凡な田舎娘なのであった。
 一方天狗とは空想の中を生きる超越的な力を持つものである。
 つまり、弁天は凡庸性と超越性というアンビバレントさを持つ女性であるとともに、両者をつなぐ役割、『有頂天家族』という物語と、物語の外に生きる私たちを繋げる窓でもあるのかもしれない。


弁天とかぐや姫

 「近寄らないでちょうだい」
 煙の中で弁天が言った。「近寄ったら喰うわよ。本気よ」
 私は足を止め、煙に噎せながら訊ねた。「さしでがましいようですが、どうしたんです?」
 「月が綺麗で、とにかく悲しくなってしまったんだもの―中略―」

『有頂天家族』 第四章 金曜倶楽部

 月を見た美女が涙を流す物語と言えば『竹取物語』である。かぐや姫が、月が美しく出ているのを見て、物思いに耽り涙を流すように、弁天も「月が綺麗だと、なんだか哀しくなっちまう」のである。

 弁天は赤玉先生に見初められ、天狗教育を手取り足取りほどこされた。そして超越的な力を身に着けだした弁天は徐々に天狗としての才覚を発揮し、平凡な田舎娘から向かうところ敵なしの近寄りがたい美女へと変貌を遂げていく。
 そして、その美貌にうっかり恋をすると、うまく利用された挙句に美脚を一閃し薄汚れた四畳半に蹴落とされてしまうのである。さらには鍋となって喰われる可能性とてある。
 弁天のこの近寄りがたい冷徹さは、言い寄る男性に無理難題を押し付け、ときには死に追いやってしまうかぐや姫の冷徹さと通じるものがある。

 ところで、主人公の矢三郎と弁天が初めて出会ったのは、桜の木の下であった。弁天は初めて天狗の飛行能力を披露し、超越的な存在へと一歩を踏み出した印象的な場面である。弁天には月だけでなく、花のイメージもある。
 河合隼雄は「花、月、美女というイメージは―中略―どこかもうあちらの世界のほうへずっと繋がっている人」と、また「この世においては、美と永続性は両立しない」とも述べている。弁天の美しさはこの世ならざる超越性から来ているものなのかもしれない。しかし、この美は永遠には続かないのである。
 このまま彼女が美しくあり続ければ、彼女はいずれ月へ―――つまりあの世へ消えなければならないのだ。
 月を見て泣く冷徹な美女は、この世から去っていくさだめにあるのかもしれない。

 一方河合は、美と相反する醜は永続の側面を持つことも指摘している。醜さを受け容れることで、弁天は人間としてこの世に居続けることができるのだ。
 しかし、多くの人にとってそうであるように、弁天にとってもまた醜さを受け容れることには痛みが伴うことでもある。

 弁天が自身の醜さを垣間見た場面がある。
 それは淀川教授が「食べちゃいたいほど好きなのだ」と言ったときである。「食べちゃいたいほど好きなのだもの」と度々口にする弁天は、しかし「喰うことは愛である」という淀川教授に同意せず、何も言わずその場から立ち去るのであった。
 美しいものは永続しない。美しい愛も、永続しない。「食べちゃいたいほど好きなのだもの」と言う言葉は、清らかで美しい気持ちのまま、関係のまま相手の命を摘み取ろうという恐ろしいものでもある。その恐ろしく身勝手な自分の姿を、淀川教授という鏡を通して見たのではないだろう。
 弁天は、自分の醜い姿に恐れおののき、醜と相反する美しい月を見て思わず涙したのではないだろうか。

 美しくあり続ければ弁天は月へ去らねばならない。しかし、醜い自分は受け容れがたい。その狭間に揺れて、彼女は月を見て涙を流す。
 美しいままこの世を去るべきか、醜さを受け容れ人間として強く生きていくべきか。誰にも告げることのできない心の揺れを、彼女は独りぼっちで抱えるしかないのである。


「父の娘」である弁天

「浜も一面が雪にうずもれて、足跡一つない。誰もいない。大きな湖だけがいかにも冷たい感じで見渡す限り広がっている。自分は本当にひとりぼっちだなぁ、淋しいなぁとおもうのだけど、誰もいないところをあるいてゆかずにはいかれないのね。でもどこへ行くというあてもない」

『有頂天家族』 第五章 父の発つ日

 なぜ弁天は独りぼっちで心の揺れを抱えるしかないのだろう。それは彼女が、赤玉先生という父によって作られた物語を歩まされているからだろう。
 弁天は、赤玉先生という父によって作られた物語を歩まされてきたのだ。赤玉先生は、立派な天狗となり、いずれは如意ヶ嶽薬師坊の跡目として、魔道を突き進んでいくことを弁天に望んでいる。
 若き日の弁天、鈴木聡美はこの世の人間とは違う自分の才能に打ち震え、赤玉先生の物語を当然のように受け容れ、今でもなお、その物語の中で生きているのではないか。

 河合隼雄は「父の影響を強く受けている、父親に特別にかわいがられる娘」さらには、父権的である社会において、男たちと互角に戦って成功する女性を「父の娘」と呼んだ。
 まさに、弁天は赤玉先生にかわいがられ、彼に教えによって天狗という男社会の中で、他の天狗と互角以上に渡り合い成功をおさめた「父の娘」なのである。
 赤玉先生によって作り出された誰よりも強い孤高の天狗となるための物語を歩み続ける「父の娘」である弁天は、孤高の天狗としてさらに跳躍するために赤玉先生を蹴落とすしかなかったのである。
 赤玉先生が他の者が孤高の地位に上るのを嫌がったように、やはり先生の物語を生きる弁天も同じ地位に誰かがいることをよしとしなかったのだろう。
(*おそらく最初に「父の娘」という言葉を用いたのはシルヴィア・ペレラであり、ペレラの著書を引用して説明していた)

 そうして、高く高く跳躍していく弁天は、ふと周りに誰もいないことに気づき、急に淋しさが胸に押し寄せるのではないだろうか。
 赤玉先生の作る物語に縛られていることに気づかず、孤高の天狗として高く高く跳躍を続け、月に手が届くほど高く自在に飛行できるようになったとき、彼女は本物の女神となり美しいまま異界へと去るしかないのである。
 弁天が、自分の醜さを受け容れ彼女自身をこの世に繋ぎ留めるためには、彼女本来の物語を生きていかねばならない。そのことに気づいているからこそ、行くあてがわからずとも「誰もいないところをあるいてゆかずにはいかれない」のである。


弁天を繋ぎ留める物語

 弁天が彼女自身をこの世に繋ぎ留めるための物語とはどのようなものなのだろうか。
 弁天は人間であり、女性でもある。現代は多様な生き方ができる。父の娘として天狗界の天下をとることも、ヒロインとして強い天狗の妻となることもできる。そう望む人もいるかもしれない。
 しかし、きっとそういう誰かが歩んだことのある筋書きのわかりやすい物語は、弁天が本来の自分を生きるための物語ではないのだろう。
 父としての赤玉先生との関係にも、強い男性との関係にも囚われることなく1人の女性として、誰も歩んだことのない道を弁天には切り開いていってほしい。
 そして、矢三郎に「まったく人間というやつはタチが悪い」と言わしめる人間代表として強く強く生きていってほしい。
 すると赤玉先生の「強くなれ」とは、天狗としてではなく「1人の人間として強く生きていきなさい」という意味だったとも考えられる。物語が進むうちに、父としての赤玉先生も、娘を支配する父から娘の生き方を支える父に少しずつ変化しているのかもしれない。


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