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妄察 わたしの熱帯

沈黙しない読書会を終えて

 2022年4月18日。時を超えて「沈黙しない読書会」がオンラインで開催されました。
 私は「贅沢な読書会」でむにゃむにゃとしか語れなかったリターンマッチとして、「沈黙しない読書会」に手記を応募しました。他のみなさんには及ばずとも、私なりの「手記 わたしの熱帯」を完成させることができました。
 書き終えた当初は、我が手記に一片の悔いなしと、以降筆を執る気はありませんでした。2018年に私の心を覆っていた靄は、手記にて語ったことで晴らされたのです。

 しかしながら、まだ「わたしの熱帯」を語り尽くしたわけではなかったようです。
 森見さん、浅井さん、そしてみなさんの語りを聞きながら、語りたい欲求がむくむくと押し上げてくるのを感じました。
 私は、みなさんが『熱帯』について語るとき、妖怪の鵺を目の前にしているかのような畏怖を感じるのです。恐ろしくも美しい!これが『熱帯』…!!
 そして、その感嘆が私の底から謎のエネルギーを沸騰させています。もしくは、森見さんはそれを“虎”と呼んだのかもしれません。
 私も私の虎が赴くままに、再び筆を執り妄想考察をしたためることとしました。わかりづらいところもあるかもしれません。読みづらいところもあるかも…。
 けれど、きっと懐の深い『熱帯』とみなさんのことです。私の拙さも「わたしの熱帯」として飲み込んでくれることでしょう。

三島由紀夫が描けなかった何か

 三島由紀夫が描けず穴のようにぽっかりとあいた何かとは…。

 それは読書会の終わりがけに森見さんが三島由紀夫についてお話されていたときのことです。ある言葉が私の脳裏を過りました。

 「自分の中にどのようなメッセージがあるのかを探し出すために小説を書いているような気がします」

 何かの本で村上春樹が語った言葉です。
 私は森見さんと浅井さんのお話を聞きながら、“三島由紀夫が描けなかった何か=自分の中にあるメッセージ”と空想を広げてみました。

 人によってはメッセージを探す必要も、表現する必要もない人生を送ることもあるでしょう。一方で、自分の中のメッセージを表現できないことで―――あるいは語ることができないことで―――、三島由紀夫のように命を落とす人もいると思うのです。
 これは何も小説家に限ったことではありません。私たちが何かを語るとき、内側には何かしらのメッセージを潜んでいるのかもしれません。

 自分の内側に潜り込んで語ること=メッセージを探す作業なのだとすれば、
 汝にかかわりなきことを語るなかれ、しからずんば汝は好まざることを聞くならん
 という警句から始まる『熱帯』は、まさにメッセージを巡る物語とも言えるでしょう。逆に、偽りの物語を語ることの危険性も同時に暗示しているのかもしれません。

そう言えば、中津川さんが「まだ終わっていない物語を人生と呼んでいるだけなのだ」と言っていました。
 中津川さんのいう物語を『熱帯』と置き換えると、『熱帯』に迷い込んでいるとは、人生に迷っているとも受け取れるかもしれません。
 “人生=『熱帯』”に迷い込んだとき、“自分の内側に潜り込んで語ること=メッセージを探す作業”に真摯に向き合った人だけが、書き手として『熱帯』から脱出し本当の意味で自分らしい人生を歩み出せるのでしょう。

 一方で、『熱帯』の正体に気づきながら、メッセージを探す作業を怠っている中津川さんは、『熱帯』が手に入ったという幻想を抱きながら、まだ『熱帯』をさ迷い続けていることでしょう。
 幻想にとらわれて『熱帯』をさ迷い続ければ、おそらく彼は妻から見放され家族を失うことになるかもしれません。彼が妻との関係よりも『熱帯』にお熱を上げていることは彼の発言の端々から感じられます。
 けれど、彼が本当の意味で『熱帯』の正体に気づき、自らの物語を語り始めたとき、きっと人生は(そして家族関係も)良い方向へ転がるはずです。
 なんだか中津川さんを応援したい気分になってきました。がんばれ、中津川さん。『熱帯』の扉が開かれるその日まで。

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